概要
演:阿部サダヲ
後半第二部「田畑政治編」の主人公。
通称「まーちゃん」。
渾名は「河童のまーちゃん」
また本編では「野良河童」だの「河童野郎」だのと罵倒系の徒名で呼ばれる事もある。
造り酒屋の次男坊。
幼少期から落語と水泳に親しむが、大腸カタルに罹ってしまい、水泳の道を断念せざるを得なくなる。
その後「アントワープ五輪」での仲間の惨敗を機に指導者の道を目指す。
金栗四三が「マラソン馬鹿」なら田畑は「水泳馬鹿」。
そのため周囲から「河童のまーちゃん」と渾名される。
ちなみに周りの人たちからは好物はキュウリ、とされている。
ロマンチストで情熱家な一方、せっかちで歯に衣を着せぬ毒舌家。
頭の回転も早いがそれ以上に口が速く、その様は嘉納治五郎から「口が韋駄天」と呼ばれるほど。
実は金栗四三よりも先に第1話で登場しており、そこから細々と「東京オリンピック招致チームパート」として出番があったのだが、
正式に主人公となった「田畑編」開始の第25話にしてこの有様である。
また言葉が追い付かなくなると「アレ、ソレ、ナニ」などの代名詞だらけになることも。
興奮しすぎると火のついた煙草を逆さに持ってしまう癖があり、その度に口を火傷してしまっている。
いわゆる一つの「粗忽者」。
そしてその破天荒な性分から、割と敵を作りやすい。
しかしその一方でカリスマ性もあり、彼を慕いついていく者も多い。
落語は圓生派で、志ん生は大嫌い。
実は少年時代にどさ回り中であった「若き日の古今亭志ん生」こと美濃部孝蔵の落語を「長い文章を頑張って憶えただけ」と酷評したことがある。
また孝蔵に財布を置き引きされた事もあり、何かと因縁が深い間柄。
帝国大学卒業後、朝日新聞社に入社。
就職試験でオリンピック第8回大会で日本水泳代表が敗れた原因が日本に温水プールがないことであることを熱く語り、面接にあたっていた朝日新聞社社長の村山龍平や編集局長の緒方竹虎をドン引かせたが、村山の「顔がいいから」の一言で採用された。
入社後、本人の希望により政治部に配属される。
が、水泳日本の名を世界に轟かせるため、仕事の合間を縫って、というより仕事をほぼそっちのけ状態で、「体協」から独立した水泳の競技組織「日本水泳連盟:水連」を結成する。
アムステルダム五輪では、資金難に喘いでいた体協の岸清一から「自分で金を持ってこい!!」と言われ触発され、
政友会を率いる重鎮・高橋是清に直接会いに行き、そのせっかちさに閉口されつつも、多額の遠征資金を高橋から受け取る事に成功する
そして体協名誉会長・嘉納治五郎から目を付けられる事になる。
1932年のロサンゼルス五輪では日本水泳選手団の総監督として同行。
平和の祭典であるオリンピックに魅了されると共に、同大会での選手達の快挙を見届ける。
1936年のベルリン五輪でも引き続き総監督で同行するが、
これまでにない盛大な大会でありながら、ナチスによる「人種差別」「オリンピックの政治利用」に違和感を感じ、危機感と嫌悪感をあらわにする。
帰国後は嘉納に引き入れられ「1940年東京五輪」の招致活動に携わり、杉村陽太郎や副島道正の奮闘ぶりを見守っていく。
しかし、軍の介入が色濃くなる日本の情勢と、日中戦争の開戦によって戦争の当事者となった日本でオリンピックが行われるという現実と矛盾に苦悩することとなる。
朝日新聞社の元同僚・河野一郎や四三との問答、そして妻・菊枝からの言葉を受け、嘉納に五輪返上を直談判するも断られ、そのまま袂を分かってしまい、嘉納は帰国の途上で死去。死に別れてしまう。
嘉納の訃報を聞き駆けつけた際には、嘉納を看取った平沢和重から嘉納の形見であるストップウォッチを託され、彼の遺志を引き継ぐこととなる。
やがて「太平洋戦争」が激化。
「学徒出陣法」が施行され、雨の神宮競技場で学生達が戦場へと送られていくのを見送りながら、「いつか必ず東京でオリンピックを行う」という決意を新たにする。
終戦後、松澤一鶴や東龍太郎らと共に体協を再建し、自らは水連の理事長に就任。
1948年のロンドン五輪に対抗する形で「裏オリンピック」こと日本選手権を同時期に開催。
翌年にはマッカーサーへの直談判をし、水連の国際水泳連盟への復帰を果たす。
その後は「東京オリンピック」を再び招致するため奔走し、
家族に相談なしで新聞社を退職したり、選挙に立候補して落選するなどの紆余曲折を経ながらも、
1959年に行われたIOCミュンヘン総会にて、悲願の東京オリンピック招致を成功させる。
オリンピック組織委員会発足時に「事務総長」に就任。
開催に向けての運営に着手するが、その過程で川島正次郎を始めとする政治家たちと対立。
インドネシア・ジャカルタで開催された第4回アジア競技大会での参加を発端に発生した政治スキャンダルに巻き込まれる形で、事務総長を解任させられてしまう。
事務総長解任後は塞ぎ込んでしまうものの、岩田幸彰や松澤らと自宅でオリンピックについての議論を交わしていくうちに元気を取り戻し「裏組織委員会」とうそぶきながら、間接的な形で組織運営に携わっていく。
聖火リレーの最終ランナーの人選を巡り、政府や組織委員会が難色を示した際には、
その様に業を煮やし五輪組織委員会へ殴り込み、
アメリカの顔色を伺う様子を見せる組織委員会を前にして、
アメリカにおもねって
原爆に対する憎しみを口にし得ない者は
世界平和に背を向ける卑怯者だ!!
と強く主張した。
以降は退いた身でありながらも組織委員会を頻繁に訪れるようになる。
1964年10月10日。
東京オリンピック開会式当日。
一番乗りで会場に赴き、同じく一番乗りをしていた金栗四三と再会し、ひとときの会話をし、
そして運営に奔走する岩田や松澤らを手伝いながらも開会式を観覧。
その後、「ぐっちゃぐちゃな閉会式」を含めた全ての日程を見届けた。
東京オリンピック後は「水連の名誉会長に就任」し、再び「河童のまーちゃん」として後進の育成に力を注いでいった。