オトナ帝国の逆襲
おとなていこくのぎゃくしゅう
概要
「ボウズ……お前の未来、返すぞ」
21世紀最初の作品として公開されたクレしん映画第9作。監督は原恵一。
- 第三十三回星雲賞メディア部門参考候補作選出。
- 第23回ヨコハマ映画祭日本映画ベストテン第8位。
- キネマ旬報オールタイムベスト・テン アニメーション部門7位。
- 日本のメディア芸術100選アニメ部門選出。
- 日本オタク大賞2001オタク大賞受賞。
- 雑誌『映画秘宝』2001年度映画ベスト10で1位獲得(洋画・邦画全て含めた総合ランキングで1位を獲得した邦画は2019年度現在、この作品のみ)。
…という経歴からわかる通り、クレしん映画でも断トツの名作と名高い。20世紀への哀愁、野原一家の絆など、どの世代が見ても心打たれる演出とシナリオを有する傑作。
あらすじ
2001年、日本全国で「20世紀博」というテーマパークが開催されていた。みさえやひろしは子供時代を思い出してわくわくするが、連日連夜付き合わされるしんのすけは辟易していた。日本では狂ったように20世紀ブームがはびこり、テレビも古い番組の再放送だらけになる。そんなある日、20世紀博から「明日、お迎えにあがります」というメッセージが放送された。
翌日、春日部中から大人たちの姿が消えた。大人たちは(高校生も含む)記憶を失い、まるで小さな子供のように(幼児退行したかのごとく)遊び呆けていた。そして20世紀博のオート三輪が突如としてあらわれ、大人たちはみなそれに乗って20世紀博へと向かっていった。
20世紀博の開催者であるケンとチャコは、「なつかしいニオイ」を使って大人達に未来へ進むことを放棄させ、永遠に昭和の時代に捉えて生き続けさせようとする計画「イエスタデイ・ワンスモア」を実行していたのだ。
子供達でさえも20世紀博に幽閉し、再現された昭和の時代に取り込もうとするイエスタデイ・ワンスモアに対し、かすかべ防衛隊は大人たちを救い出し明日を手に入れるために戦いを挑む。
考察・余談
「オトナ帝国」という名前について
タイトルにもなっている「オトナ帝国」だが、本編中においては、
風間くん「春日部中の大人が居なくなっちゃうなんて」
マサオくん「一体どこ行っちゃったんだろう?」
ネネちゃん「20世紀博に行ったんじゃない?」
マサオくん「何しに行ったのかな?」
ネネちゃん「遊びにでしょ?きっと私達捨てられちゃったのよ!」
マサオくん「えぇ!?うわーやだやだ!!」
しんのすけ「大人達、本当にあの中で遊んでんのかな?」
ボーちゃん「こっそり、大人たちの国を、作ってるとか」
しんのすけ「おぉー!オトナ帝国ですな!」
風間ネネマサオ「オトナ帝国!?」
……というやり取りで登場するのみであり、ケン達イエスタデイ・ワンスモアがそう名乗ったことは一度もなく、また「彼らの実態」を表す言葉としてもそこまで的確なものとは言い難い。
とはいえ作中で示された通り、しんのすけ達子供には理解できない「ノスタルジー」を武器にする彼等に対し、そういった適当な名前を付けてしまうのは致し方ないと言える(上のやり取りや下記のひろしを見たときの反応を見れば分かるが、しんのすけもまさか大人たちが本当に遊び呆けているとは夢にも思っていなかった事が窺える)。
更に言えば、クレしん映画のタイトルはおおよそ主人公であるしんのすけの視点で付けられている物なので尚更である。
大人達の異様さ
先述したように大人達が幼児退行したかのような描写があるが、特にひろしがいた万博のシーンはしんのすけの視点から見て考えた場合、しんのすけが必死に説得していたのも無理もない事が読み取れるのである。
それはひろしが涙ながらに我を取り戻した際の部屋の状況にあり、『薄暗く万博のミニチュアとはお世辞にも言えないハリボテがならんだ部屋』『その中で幼児退行している父親の姿』を目の当たりにすればさすがのしんのすけでも愕然とするであろう。シーン自体はひろしの幼少期の記憶の中にしんのすけが入ってきたように描かれているが、現実的に考えると異様としか言い様がないのである。
この事はひろしが我を取り戻し、みさえを見つけた際の様相で第三者には異様に見えている事を実感したからである。
テーマとなる昭和ノスタルジーの欠点
ケンとチャコが画策する戦後昭和への退行は、表面的には現代社会への諦めから古き良き時代へと時間を巻き戻すという、一見夢のある計画だが、懐古主義的思考はあらゆる局面において負の面が表に出てこないか、無視、最悪隠ぺいされる事が多い。
つまり、本作で描かれていた「昭和」とは「懐古」を拗らせて良かった面だけを美化して先鋭化し作り上げた偽りの時代なのである。
「激動の昭和」と呼ばれ44年も続いたこの時代は、根源となる戦前の経済恐慌から数えるとキリのない社会問題も同時に進行していた事は周知の事実である。オトナ帝国が見せた緩やかで懐かしさを覚える安定した時代ですら高度経済成長の恩恵に授かって生まれたものであり、その前段階として戦争で出来た莫大な経済的損失と人口減少からの奇跡的回復という泥沼の戦後から必死の思いで築き上げた土台があり、つまるところオトナ帝国とは戦後昭和という時代の極々上澄みを都合よく切り取った挙句に現代に後ろ向きになった大人達の偽りの楽園にすぎない。
この時代にはなす術もなく、平成以降の世になっても引きずった問題も多い。皮肉な事にケンが絶望した「汚い金と燃えないゴミが溢れる21世紀」とは、むしろ彼が渇望した「高度経済成長の世」の時点で蔓延していたのである。汚職はいつの世もあるが特に1976年に起きたロッキード事件の存在、高度経済成長期こそ消費社会の始まりであり実際に東京はゴミが溢れ処理が追いつかずに埋め立てに走っていた。笑えない話だが、そのせいで当時東京を中心とした近郊はハエが大量発生している。
これでも20世紀の負の歴史のホンの一例にすぎないのはおわかりだろう。
また作中で見る限りの昭和は、概ね1960~80年代あたりまでの20年であり、当人たちにも本当に苦しかった時代は忘れ去られている。例え現代(平成~令和)と比べて生活が安定していたとしても、時代ごとに全く違う問題と直面してきたためどこで切り取るかで景色はまるっきり変わってしまう。実のところ、これら複数の時代を一括りに「オトナ」「懐古」「昭和」で片づけるのはかなり横暴な理論で、この「イエスタデイ・ワンスモア」の本質が見たい者にとって都合のいい過去の思い出に浸るという個別化したディストピア的側面を如実に表している。
「オラ…とーちゃんやかーちゃんやひまわりやシロと…もっといっしょにいたいから」
「ケンカしたり、あたまにきたりしてもいっしょにいたいから…」
「あと…オラ、オトナになりたいから」
「オトナになって、おねいさんみたいな
きれいなおねいさんといっぱいおつきあいしたいから!」
振り返る過去が無いからこそ、未来へ向いてただ走ることが出来た。
かつての自分達だってそうやって子供から大人になった。
しかし過去に囚われ、時代の流れから目を背け、未来を見捨てた大人達のエゴは、
ただ未来を信じる子供達のガッツの前に敗北したのであった。
※(ちなみにその後飛び降り心中を試みたが、「またしても“家族”に邪魔された」とのことである)