その他の同名語についてはスバルを参照。
概要
戦後、GHQの指示により解体された中島飛行機の後身の1つ、富士自動車産業が戦後の乗用車純国産第1号を目指して開発した、「開発コードP-1」の商標名に予定されていた「スバル1500」が発端である。自動車自体の名前が「スバル」であり「1500」は(おおよその)排気量を示す。
しかし、この試みは富士自動車産業の経営悪化に伴い頓挫し、完成一歩手前まで漕ぎ着けながら幻に終わった。
「スバル」の名前も、日の出を見ることなく終わった。
筈だった。
旧中島飛行機を前身とする主要5社は経営難を克服する為、合併し「富士重工業」となることになった。それと共に、「開発コードK-10」の開発がスタートする。
この「開発コードK-10」のボディデザインを担当した独立工業デザイナーの佐々木達三が、「開発コードP-1」の予定商標名が「スバル1500」だった事を知り、「開発コードK-10」のデザインモデルに勝手に「SUBARU360」のロゴを入れた。これにより「開発コードK-10」の商標は「スバル360」に自然と決まっていったという。
1958年の「スバル360」発売時、まだ富士重工は独自の販売ネットワークを持っていなかった。1959年、スバル「サンバー」が発売され、ブランド名としての「スバル」+車両ごとの商標という形式のさきがけになるが、まだ完全なものではなかった。1966年に発売された「スバル1000FF」、その後継である「スバル ff-1」でも、あくまで「スバル」が車両本体の商標であった。
「スバル」が完全にブランド名として独立するのは1972年発売の「レオーネ」から。翌年「レックス」が発売され、富士重工製自動車の隆盛期を迎える。この頃、日本の自動車業界は量産能力のない中小以下の企業がほぼ淘汰され、「9強」(現在の「8強」、トヨタ・日産・新三菱重工→三菱自動車・東洋工業→マツダ・ホンダ・スズキ・ダイハツ・富士重に、当時乗用車の開発生産を行っていたいすゞを加える)体勢になると、各メーカーは独自の販売網を持つようになった。富士重工もまた同様で、連結子会社であるディーラー会社(販社)が立ち上げられた。この時販社の社名として「スバル」が選ばれ、ブランド名として独立したのである。
車種
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