生没:仁平元年(1151年)-治承4年5月26日(1180年6月20日)
後白河天皇の第三皇子。三条高倉に住んでいたため三条宮・高倉宮と称された。
叔母・八条院の猶子になる
少年期は僧籍に入っていたがのち還俗。元服後は叔母である父の異母妹・八条院暲子内親王(母は美福門院、近衛天皇の同母姉、二条天皇の准母)の猶子となる。才能にも恵まれ皇位継承の可能性もあったが異母弟である憲仁親王(後の高倉天皇)が皇太子となった。これは、後白河上皇が憲仁親王の生母で平清盛の後妻・時子の妹である滋子(建春門院)を非常に寵愛していたことに加え滋子の実家である平家の協力を期待したためともされる。
平家と後白河院に疎まれる
以仁王には高い財力を持つ八条院が付いていること、八条院を通じて二条帝や美福門院に近かった人士が周りに集まっていたこと、以仁王自身の資質の高さなどから二条帝の再来を期待する向きさえもあった。だがそれは二条帝が崩御するまで関係が悪かった後白河法皇に取っては面白くない話でしかなく父からは疎まれてた。また高倉帝と関係が深い平家に取っても高倉帝の競合相手として看過できない存在になる可能性を秘めていたため警戒された。このため父に疎まれた上に滋子の妨害もあり親王宣下すらも受けられないまま、三条高倉においてひっそり暮らし三条宮または高倉宮と呼ばれるようになり忘れられた存在になりつつおった。
治承三年の政変~令旨通達
治承3年(1179年)、後白河院が清盛の子の平重盛と平盛子の遺領を取り上げたことが決定打になり院と清盛の対立は頂点に達した。11月に清盛は挙兵し後白河法皇を鳥羽殿に幽閉、さらに高倉天皇を譲位させ言仁親王が安徳天皇となった。この時多くの反平家の人士が処分を受けたが以仁王も対象になり長年知行してきた城興寺領を没収され経済的に打撃を受け、そのことや安徳帝の即位で平家打倒を考えるようになっていく。そして以仁王は、源頼政一族や源義盛(源為義の十男)らと共謀し平氏打倒の挙兵・武装蜂起を促す令旨を発行し、義盛改め行家に対し諸国の源氏に通達させた。また自身も「最勝親王」と称して挙兵の準備を整えていた。しかし、以前から王のことをマークしていた清盛はほどなくしてこれらの事実を知るところとなる。
宇治での戦い~最期
そして、清盛の圧力もあり皇族籍を剥奪され、源姓を下賜され「源以光」となり、土佐配流の勅命や院宣が出るのを知った以仁王は逮捕から逃れ園城寺にて頼政一族と合流。平家は園城寺への攻撃を決めつつも延暦寺を懐柔。園城寺と延暦寺の対立関係に付け込んだ清盛の政治力もあり延暦寺は中立を決め込み協力を得ることが出来ず、また園城寺内でも親平家勢力があり月収一枚岩ではなかったため以仁王と頼政は南都の寺院勢力を頼ることになる。
しかし、宇治で平家軍に追い付かれ頼政一族や渡辺党らが防戦して時間を稼いでいる間に以仁王は興福寺へ向かったが、加幡河原で平氏軍の藤原景高・伊藤忠綱(伊藤忠清の長男)らが率いる追討軍に追いつかれて討たれた。なお『平家物語』では討手の大将は景高の父・景家(伊藤忠清の兄)となっている。
その後
この件で清盛は見せしめとして園城寺を攻撃、さらに五男の平重衡に南都攻撃を命じ東大寺の大仏殿は焼け落ちてしまう。
また、八条院に対しても以仁王を支援していた疑惑が掛けられたが結局処分されることはなかった。
以仁王と頼政一族の平氏追討計画は失敗に終わったが、彼の令旨を受けて源頼朝や木曾義仲など各地の源氏が挙兵、清盛の死と相まってこれが平氏滅亡の糸口となった。
朝廷内では以仁王の令旨は平家打倒以上に高倉院や安徳帝からの皇位簒奪を謀ったものと受け取られ、朝廷から反発され「刑人」と呼称され謀反人扱いを受けた。このため令旨が錦の御旗にならなくなったことを知った頼朝は新たに平家討伐の院宣を後白河院から受けるように源範頼・源義経に命じている。逆に義仲は令旨に拘り新天皇に北陸宮を推挙したことで後白河院や朝廷と対立しやがて滅亡に向かうことになる。時は過ぎ平家が滅亡し、後白河院が崩御し後鳥羽天皇や土御門天皇の御世になった頃でも謀反人扱いは解けていなかったため、八条院が以仁王の王女・三条宮姫宮への土地譲与を望んだ時に九条兼実が強硬に反対している。なお謀反人扱いが解けるのは承久の乱における後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇の配流後であろうとされる。
きょうだい子女
- 二条天皇…異母兄。
- 高倉天皇…異母弟。
- 式子内親王…同母姉。歌人として有名。
- 北陸宮:第一皇子。父の死後、義仲のもとに逃れてその旗頭に奉じられる。
- 若宮:平氏に捕まるが、幼いこともあり父に連座せず道尊と名乗って仏門に入った
- 三条宮姫宮:八条院三位局(高階盛章の娘)が産んだ王女で父同様、八条院に可愛がられ安楽寿院・歓喜光院などを譲与される。