概要
保科正之は会津若松藩松平家の始祖である。江戸幕府三代将軍・徳川家光、駿河大納言・徳川忠長は異母兄。
”二代将軍・徳川秀忠のご落胤と将軍家に認められたうえで国政で活躍した名君”という些か珍しい経歴の持ち主である。
経歴
二代将軍・徳川秀忠は鷹狩りでしばしば遠出しており、その時に静(のちの浄光院)という娘と出会い手を付けたことで生まれる。※この点の描写は資料によって差異がある。
当然ながら身分の低い娘との間に子を作ったことがバレれば大ごとである。従って秀忠により武田信玄の忘れ形見である見性院のもとに母親と一緒に養育され、のちに旧武田家臣の高遠藩主・保科正光の養子に出された。
その後正光のもとでつつましやかに暮らしていたが、異母兄の徳川家光が身分を隠して鷹狩りに出かけたときに成就院に立ち寄って、自分に忠長とは別の弟がいたことを知る。
正之は江戸城で家光や忠長と対面し、その人柄を認められて21歳で高遠藩3万石の藩主となった。
以降は忠長が乱行の末自刃したのに対し、正之は家光及び四代目将軍・徳川家綱の信頼を得て的確に将軍を補佐、その辣腕ぶりを認められて石高を増やし、出羽山形20万石を経て会津松平藩23万石の藩祖となった。
業績
由井正雪の乱で”過度の改易が浪人の増加を招き治安に悪影響をもたらした”という背景を察知し末期養子の緩和や殉死の禁止を盛り込んでいる。
また明暦の大火では、焼け落ちた江戸城の天守閣の再建を「今の時代での実用性は乏しく無駄に出費するだけ」という理由で断念し、浮いたお金を防災対策や江戸の町の復興に回している。
人物
謹直で有能な人物で、家光からは気軽に話せる身内の相談役として重宝された。
また、藩主としても名君であり、国替えが行われた時「今の高遠では不安だ、正之様の(新しい任地である)最上へ行きたい」と言われるだけでなく、一部の住民が本当に正之を慕って逃散して山形に移住してしまったという逸話もある。劉備かよ。
また、死の床に就いた異母兄・家光は正之を枕頭に呼び寄せ、堀田正盛に抱きかかえられながら起き上がり、自らの口で「肥後よ宗家を頼みおく(=肥後守(正之)よ、我が息子(=家綱)を頼むぞ)」と遺言した(家光は同じように有力大名を呼びだした際、大老・酒井忠勝を通じ、将軍最後の言葉として「新しい将軍の政を身を挺して助けるように」と申し渡しているが、その際、家光は寝床に横になったままだった)。
これに感銘した正之は寛文8年(1668年)に『会津家訓十五箇条』を定めた。第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。
イメージです)
(画像は特にこれを固く守ったのが幕末の藩主・松平容保で、彼のその頑固さが会津藩士を地獄に導いてしまう破目になるのだが、それは当の容保ですら予想しえなかっただろう。