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堀内恒夫の編集履歴

2021-04-24 08:26:27 バージョン

堀内恒夫

ほりうちつねお

山梨県出身の元プロ野球選手、野球解説者。 入団から引退まで読売ジャイアンツに所属していた投打に秀でた生え抜き選手であった。

概要

1948年1月16日生まれ。山梨県出身。


1965年のドラフトで読売ジャイアンツ(巨人)から1位指名を受け、入団。翌1966年から一軍でプレー。44回連続無失点を記録するなど、セ・リーグ記録となる開幕13連勝を含む16勝を記録高卒選手ながら最優秀防御率最高勝率沢村賞新人王タイトルを獲得。1967年からはエースナンバー「18」を背負った。


27歳で150勝を達成するなど1978年まで13年連続2桁勝利(そのうち12回がリーグ優勝)を挙げ王貞治長嶋茂雄らが活躍したV9時代のエースとして活躍。


当時阪神タイガースのエースだった江夏豊とはライバル関係で、特に節目の100勝目と150勝目は互いに同じ記録を掛けた試合での対決となり、100勝は江夏、150勝は堀内に軍配が上がった(なお、200勝目は堀内が江夏より2年早く、対ヤクルト戦だった)。


現役生活を通じて打撃にも定評があり、圧巻は1967年10月10日の広島戦において、投げてはノーヒットノーランを達成、打つ方では投手として史上唯一となる3打席連続本塁打を記録(投手の1試合3本塁打は史上2人目)、なおチームは日本プロ野球記録の6イニング連続本塁打も達成(ちなみに長嶋はこの試合未出場で、王は4タコ)、まさに堀内様様の試合であった。

なお、この試合、堀内は4打席連続本塁打の方は意識して狙ったが、それが途切れた後に、チームメイトから自身がノーヒットノーランを続けてたことを知らされ「じゃあしょうがないからそっちをやるか」と言ってのけた逸話がある。

また、日本シリーズでも史上唯一の投手による1試合複数本塁打(2本)を記録している。


1983年に現役引退。引退試合となった同年10月22日の対大洋ホエールズ(現在の横浜DeNAベイスターズ)戦では、巨人3点リードの8回表から登板。8回裏に回ってきた現役最終打席で投手ながら本塁打を放っている。投手としては2イニングを抑えてセーブを記録している。


引退翌年の1984年には、当時巨人の監督であったかつてのチームメイト王貞治の下で投手コーチに就任。1986年に一旦解説者や野球評論家に転身するが、1993年からは再び巨人の投手コーチに就任。(当時の監督は長嶋茂雄だった)1999年に再び野球評論家の道に戻るが、2003年オフ、前監督原辰徳の突然の監督辞任により、急遽巨人の監督に就任。しかし、読売グループの身内である日本テレビですらテレビ中継をやめてしまうレベルの大幅な成績不振を引き起こしてしまい、僅か2年で監督を辞任せざるをえなくなった。


人物

小学生の時に右手人差し指をうどん製作機に挟まれ、1cmほど切断する大怪我を負っている。だが、そのハンディキャップが逆に変化球を生み出すことになる(本人曰く「普通にストレートを投げるとナチュラルに(今でいう)カットボールになる。速球と同じスピードのカットボールなら打たれにくいに決まってる」とのこと)。

そのふてぶてしい態度から「悪太郎」、「甲斐の小天狗」とあだ名され、若手時代は巨人の寮では王貞治と並び、門限破りの常習犯であったそうな。


当時のチームメイトの1人であった王曰く「確かに入団してすぐに新人王を獲る怪童ではあったが、はっきり言うと制球力は良くなかった。ところが、二死満塁、ツースリーと追い詰められると投げる球がストライクゾンーンに突き刺さったり相手を見事に打ち取ったりする不思議な投球で勝ってしまい、『堀内が投げている=今日は勝てる』という確証のようなものがあった」と述懐し、チームのピンチを招きつつも己の手でしっかりと締め括る天性の手腕を評している。


堀内が恩師と慕った1人に当時の甲府商高野球部監督を務めた菅沼八十八郎(すがぬま やそはちろう)がおり、テレビ番組のインタビューで「この素晴らしい素質にあれこれ手を加えるべきではないと思った」と答え、興味が無ければ見向きもしないムラッ気も熟知した上で敢えて綿密な指導は避けた事を振り返っている。これについて堀内も「好きなように遊ばせてくれる環境を与えてくれ、荒削りのままプロ入り出来た。ちゃんとした指導の下で育ったなら良いピッチャーになっただろうが、このおかげでもっと良いピッチャーになれた」と温情を汲み取っている。


しかし、こうした独立独歩、負けん気の強さも相まって人間関係の軋轢は少なからずあり、一時期は合宿練習を終えた夕方から新宿末廣亭に足繁く通い、人目に付かないようにしながら寄席演芸を堪能して心を解きほぐす日々を送っていた。本人の談によると、この寄席通いが質疑応答の際のボキャブラリーやユーモアを培ったと分析している。


政治家としての活動も行った。2010年の参議院議員選挙に出馬した(比例代表)が次点で落選。その後、2013年に繰り上げ当選の資格を得て参議院議員(自民党所属)となった。2016年の参議院議員選挙では落選している。


国会ではヤクルトファンである安倍晋三首相曰く憎たらしいピッチャーであったらしく、その際に笑いが巻き起こった。

(ソース)

関連項目

プロ野球 投手 読売ジャイアンツ セ・リーグ

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