経歴
ともに日本大学藝術学部出身(中退)。コンビ結成は1988年の事。
コント赤信号のリーダー渡辺正行主催のステージでデビュー。その場で太田プロにスカウトされる。その後ホンジャマカらと共に若手のホープとして期待され、テレビレギュラーを着実に獲得する。この頃の代表作に「ウッチャンナンチャンの笑いの殿堂」がある。
しかし1990年に太田プロを突如離脱。この事に太田プロが立腹し、長きに渡りテレビの仕事が入らない、いわゆる「干された」状態が続く。理由はスカウトした人物にそそのかされたことと、自らがやりたい仕事をやりたかったことが挙げられている。当時のことについては「自分たちが全面的に悪かった」「面白ければ仕事がなくなることはないだろうと思っていた」といった反省の弁を後年に語っている。
1993年に光代と共に太田プロの社長と副社長に謝罪をし、筋を通したうえで現在所属するタイタンを創立(※1)。太田の妻、太田光代を代表取締役に据え、再びテレビ露出が増え、「ボキャブラ天国」でのヒット、また太田の著書『爆笑問題の日本原論』の大ヒットを受け一気にトップ芸人の地位まで上り詰める。
- ※1:光代としてはこの和解は爆笑問題が太田プロに復帰する事を前提にするものにしようとしていたが、太田が復帰を頑なに拒否した為仕方なく個人事業主としてタイタンを設立する事になった。その為設立当初の光代は壁にぶち当たる度に太田プロに相談を持ちかけていた。また、タイタン主催のライブを定期的に開催する事にしたのも光代の提案であり、一般の観客の他にテレビ局や代理店の者を呼び込む意図があった。
いわゆる「付き人」となった経験は無いが、太田の持つその卓越したセンスから多くの大物芸人より称賛を受けており、中でも故・立川談志は冗談交じりに「太田は俺の隠し子」と公言していた事から、その気に入りようが伺える。また、田中もピンで情報番組に多数出演している。
ポンキッキシリーズの「爆チュー問題」も子供たちにウケている。
太田は談志、ビートたけし、桑田佳祐を尊敬していることを公言。そして、桑田は「芸能界唯一のメル友」「音楽寅さんの感想をいつも送ってきてくれる」とラジオでネタにし、たけしは太田をオールスター感謝祭でたけし軍団やダチョウ倶楽部と共にボコボコにし、また新潮社の雑誌で、たけし・太田・談志の鼎談が行われたが、そのCDを聴くと、談志が本当に楽しそうなのが伝わってくる。
芸風
太田の支離滅裂とも取れる言動を、田中がたしなめるようにツッコむと言うスタイルが主。
特に時事ネタを毒を持って切っていくネタにキレがあり、「ツービートの再来」と呼ばれたこともあった。
近年は、プライベートで報われない田中を太田がイジくり倒し、田中がキレ気味にツッコむと言うスタイルも定着した。
また多くのトップ芸人が多忙の為に自身のレギュラー番組しか出なくなるなか、現在もライバル芸人が司会を務める番組にゲスト出演するなど、精力的な活動を続ける。
他にも、先述した「ボキャブラ天国」で知り合った芸人達とは固いきずなで結ばれているらしく、多くのボキャブラ芸人の仕事が減っていく中、タイタンのライブにゲストとして呼び寄せたり、あるいは自身がレギュラーを務めるテレビ・ラジオ番組に出演させるなど、横のつながりを大事にしている。彼らも先輩の芸人から世話になってきたため、後輩に世話をするのは当たり前と思っているのだろう。
近年は学術的な番組への出演も増えており、NHKでレギュラー番組を持つ。