概要
メイン画像はツービートが流行らせた交通標語をパロディ化したギャグの一つ「赤信号みんなで渡れば怖くない」。
なお、「赤信号~」は、40年を経て2021年発売の国語辞典に収録された。
【赤信号みんなで渡ればこわくない】〔句〕おおぜいでやれば、悪いことでも堂々とできるものだ。〔一九八〇年に、漫才コンビのツービートが広めた〕
《三省堂国語辞典第八版より》
来歴
当初は、きよしがネタを作りボケ、たけしが突っ込むスタイルだったが、コンビは全く評価されない状況で舞台コント(軽芝居)からの転向組という立場から浮いていた。
そこでで松鶴家千代若・千代菊門下に入門し、松鶴家二郎・次郎を名乗って活動する。
また、きよしがコロムビア・ライトの付き人経験があったことから、空たかし・きよしとして舞台に立つこともあったが状況は変わらず、ついにたけしがきよしに代わって主導権を握ることとなり、コンビ名をツービートと改名する。
大阪の新進漫才師・B&Bの島田洋七との出会いからシンプルで間を減らしたテンポの速い『16ビートの漫才』『客を完全に飲み込み唖然とさせる漫才』を見て取り入れる。
そして下ネタはもちろん、差別用語から、放送禁止用語まで、およそ今までの漫才ではタブー視されていたものをあえて取り入れ評判になる。
1970年代後半から状況はさまざまに変化を見せ、立川談志や漫画家の高信太郎らがツービートを評価、所属事務所も太田プロダクションへ移籍し、1975年には初めてテレビに登場。
大阪で興ったB&Bに加え、テレビ『ヤングおー!おー!』に出演していた若手達のコンビ、そしてツービートなど以前とはスタイルの違う新世代の漫才師をフジテレビの『THE MANZAI』(全11回で終了)に出演させると、1979年頃より1981年頃にかけて漫才ブームと呼ばれる社会現象に。
しかし第5回をもって出演を最後にすると猛はソロの活動を開始、1981年1月1日からのニッポン放送『ビートたけしのオールナイトニッポン』では人気を博す。
1981年に『THE MANZAI』のスタッフがそっくり移行し、フジテレビでスタートしたバラエティ番組『オレたちひょうきん族』に出演するとたけしはレギュラーに。
ライバル『8時だョ!全員集合』を視聴率でしのぐようになると一区切りしてたけしは独自にたけし軍団を率いたバラエティ番組にチャレンジする。
一方きよしは、1985年頃、太田プロを退社、ツービートとしての活動もほとんどなかったがきよしを自分の番組のゲストに度々呼んで共演した。