概要
事件前の両者の関係。
当時数多くのレギュラー番組を持っており、お笑い界のBIG3と称され、まさに売れっ子だったビートたけしだったが、その反面、メディアやマスコミから必要以上に取材を責められ、遂にはたけしの家族にまで手が回るようになった。たけしの妻である北野幹子によると、子供を私立校の入学試験に連れて行くところを写真に撮られ、このため学校から「子供の写真が週刊誌に掲載されるようでは入学させられない」と言われてしまった。そのため、次第にたけしはメディアやマスコミに対し不満と苛立ちが溜まるようになっていった。
直接の原因。
それからまもなくして1986年の12月8日、東京都渋谷区の路上で、ビートたけしこと北野武(以下「たけし」、当時39歳)と当時親密に交際していた専門学校生の女性(当時21歳)に対し、『フライデー』の契約記者が、女性の通う学校校門付近でたけしとの関係を聞こうと声をかけたが、それを女性が避けて立ち去ろうとしたため、記者が前方に立ちふさがってテープレコーダーを女性の顔に突きつけ、手を掴んで引っ張る等の行為に及び、頸部捻挫、腰部捻傷で全治2週間の怪我を負わせた。
直接交渉
翌日、女性から一部始終の知らせを受けたたけしはとうとう激怒。フライデーの発行元である講談社に抗議電話をかけ謝罪を要求するが、講談社は謝罪を拒否し自分達の行為は正当だと強く意見した。それに対したけしは法的告訴やファンに訴えるという手段を選ばず、「今から行ってやろうか」と通告し、翌12月9日の午前3時過ぎ、番組収録終了後、たけしは弟子集団であるたけし軍団の一部メンバー11人(ガダルカナル・タカ、東国原英夫(当時、そのまんま東)、グレート義太夫、ダンカン、大森うたえもん、柳ユーレイ、松尾伴内、大阪百万円、キドカラー大道、サード長嶋、水島新太郎)を引き連れて、東京都文京区音羽にある講談社本館内にあるフライデー編集部に押し掛けた。
ただし、残りのメンバーのラッシャー板前、井出らっきょ、つまみ枝豆は参加しなかった。その理由はラッシャーは痔の手術で入院中で、らっきょは愛人の家で浮気をしていて連絡が取れなかったため。
そして枝豆はかつて芸人になる前は右翼団体の過激派に所属しており、それによって逮捕歴もあった為、もし彼を参加させれば取り返しのつかない事態まで発展する可能性も考えられたので彼はたけし直々に「お前は来るな」と命じられていたのでそのまま待機となった。
決裂
そして編集部に乗り込み、直ちに自身の妻子と愛人に対する取材の謝罪を要求した。だが、編集部側は一切謝罪には応じず、自分たちの仕事はこういうものだとわかって欲しいと了承を要求。更にはそっちだってやましい商売だから、写真の1枚や2枚を撮られても仕方がないと挑発的な意見を挙げる。
結末
その言葉を受けたたけしは遂に辛抱の緒が切れて「ガタガタうるせえんだよ!!」と発して暴行に至った暴行傷害事件へ発展した。たけしらは「ぶち殺すぞ、この野郎!」と叫びながら、粉末消火器を噴射した上、同誌の編集長及び編集部員らに室内にあった雨傘や拳で殴打したり蹴ったりして、肋骨骨折などで1ヶ月から1週間の傷害を負わせた。たけしらは住居侵入・器物損壊・暴行の現行犯で、警視庁大塚警察署によって逮捕された。逮捕後、たけしらは取り調べに素直に応じ、その後の警察の判断で逃亡や証拠隠滅の恐れ無しとして釈放された。
事件後
事件を起こした張本人のたけしと弟子のたけし軍団11人は釈放後、所属事務所の太田プロダクションから無期限の謹慎が言い渡され、当面の間、テレビ番組の出演は自粛せざるを得なかった。また、事件が起きた当初の太田プロダクションはたけしらを契約解除の方針で処分を進めていたが、事件に参加しなかったメンバーから「たけしさんは故意で起こしたんじゃないんです。僕達や芸能関係者や自分の家族のプライバシーを守るために決行したんです」とフォローを添え、同じく事務所の後輩でもある山田邦子や片岡鶴太郎も「いきなり契約解除になればそれこそテレビ界は大パニックになって取り返しがつかなくなるからもう少し慎重に決めましょうよ」と妥協案を提示。そして、たけしの先輩の伊東四郎から「ちゃんと本人から事実確認を取ってから処分を決めなさい。事務所の体面だけで判断するのは間違っているし、そんなことしたら事務所自体の信用も失うよ」と一喝され、これらの助言から契約解除は撤回し謹慎処分になるまで寛大化された。
とはいえ重大な打撃を受けたことに間違いはなく、個人事務所「オフィス北野」を設立するきっかけとなったと後に振り返っている。
その間、たけしが出演していた番組は放送休止、もしくは残りのたけし軍団やダチョウ倶楽部、江頭2:50、山田邦子などで代役を立てて、たけし中心のレギュラーコーナーは当面の間、過去の傑作選を放送するなどの処置を取った。
かつて土曜8時の番組で争っていたライバルの志村けんはこの事態きっかけに仕事を干されたたけしと軍団、およびその家族に対して、謹慎中に志村が金銭的な援助をしていた事が後に明らかとなった。その為、たけし自身は彼の行為を心から感謝しており、それ以降は頻繁にテレビで共演する程まで仲が深まっていったという。
その後の裁判でたけしに対して懲役6ヶ月執行猶予3年の実刑判決が下され、たけし軍団は検察庁から起訴猶予処分となった。なお、判決を下した裁判官は判決の中で、たけしらの行為を厳しく断罪すると共に、「被告人がフライデーの取材方法、編集方針等に憤慨し、苦情を言わずにいられなくなった心情には酌むべき点が十分ある」として、フライデー側の過剰な取材にも苦言を呈した。
なお、謹慎中たけしは自宅ではマスコミの格好の餌食に晒されるという理由で東京圏外に離れて、神奈川県の湯河原温泉に避難していた。しかし実際にはたけしの実母のさきが「あんなどうしようもないのは、死刑にでもしてください」とマスコミにインタビューに答え、結果として総バッシングどころかかえってトーンダウンをさせてしまったという。
余談
後にたけし自身は「一発殴って終わりにして、編集部員も含めてみんなで飲みに行くつもりだった」と自著に記している。
写真週刊誌として写真を売りにしていたフライデー誌が、現場写真を1枚も撮っていなかった事は、当時からネタにされていた。
尚、たけし釈放後の『オレたちひょうきん族』にてこれを基にしたネタがたけし達本人によって行われている。
また、たけしは謹慎中、娘の教科書を読んだり教育番組を見たり問題集を購入して勉強する生活を送っていたが、この行動が後に『平成教育委員会』の番組原案に繋がっていく事になる。
この事件が起きた翌日にたけしが監修したファミコンソフト『たけしの挑戦状』が発売された。事件の報道に伴いテレビCMは打ち切られたが、雑誌広告や攻略記事は普通に掲載された。
実行犯の一人だった東国原英夫は謹慎中の1987年、推理小説『ビートたけし殺人事件』を執筆しベストセラーとなる。1988年にはドラマ化され、東国原を含むたけし軍団のメンバーも出演した。また、2007年に宮崎県知事に就任した際、「暴力知事」と揶揄されているが、その記事はフライデーと、フライデーと同じ講談社が発行している「週刊現代」が掲載したもので、20年経過しても残る因縁を印象づけた。