概要
陳祗と共に『三国志』巻39「董劉馬陳董呂伝」で董允伝の付伝という形で収録されている。
生年も出自不明。蜀末期の臣である郤正とは屋敷が30年近くも隣同士であった事から諸葛亮が存命であった頃から仕えていたと思われる。蜀の第2代皇帝劉禅に寵愛されたが、劉禅に対して厳しい諫言役であった董允の存命時は低い役職に留まり表立った行動はできなかった。
蜀では246年に董允が亡くなり、のちに248年には王平、249年に馬忠、251年に鄧芝と内政・軍事の重鎮たちが立て続けに亡くなる。さらに翌252年には費禕も暗殺されたため陳祗が内政のトップとなったが、陳祗は諸葛亮や董允と違い宦官に甘かったため黄皓は朝廷内での発言力を強めるようになる。その後は張嶷・陳祗・夏侯覇たちもこの世を去ったため黄皓は完全に朝廷の主導権を掌握した。
黄皓に反発する人間は多かったが劉禅の弟・劉永を始め、「三国志」の編者である陳寿やその同門である羅憲など黄皓の讒言により遠さげられた人物は多く、黄皓の専横を劉禅に訴えた姜維に至っては反対に自分自身が反発を買い逆に黄皓によって失脚させられそうになった為、成都に戻る事が出来なくなった。結果的に諸葛瞻や董厥といった黄皓の専横を止めるどころか同調する選択を取った人間ばかりが朝廷に残った。
そして263年の魏の侵攻の際には姜維の援軍要請を握りつぶし、劉禅に神託で敵は来ないと伝え蜀の滅亡を決定的にしてしまった。滅亡後は魏将・鄧艾により処刑されそうになったが鄧艾の部下に賄賂を渡し処刑を免れた。以後の消息は不明。
「三国志演義」においても蜀滅亡の引き金を引いた奸臣・佞臣の類として数多くの悪事を重ねるが最後は司馬昭の命令で処刑された。
その他
- コーエーの三國志シリーズにおいては野望だけは高いが、義理も含めた他の能力値やパラメータは全武将の中でも最低クラスで基本的に使い道がなく、おまけにすぐ裏切るので親愛のある劉禅以外の君主ではお留守番にも使えない。