当時の風刺
Ce corps qui s'appelait et qui s'appelle encore le saint empire romain n'était en aucune manière ni saint, ni romain, ni empire.(Voltaire, 1694.11.21-1778.5.30.)
神聖ローマ帝国、と自らを呼んだ、そしていまだに呼んでいるこの政体はいかなる点においても神聖ではなく、ローマ的でもなく、帝国でもなかった。(ヴォルテール著『歴史哲学序論 諸国民の風俗と精神について』70章)より)
Holy Roman Empire
神聖ローマ帝国しんせいローマていこく、 800年 - 1806年
ドイツ語:Heiliges Römisches Reich
ラテン語:Sacrum Romanum Imperium
イタリア語:Sacro Romano Impero ,
- 現在のドイツ、オーストリア、チェコ、スイス、オランダ、ベルギー、チェコ、オーストリアやイタリア、フランスも最盛期にはその領域に含めていた。
- 日本では通俗的に、962年ドイツ王オットー1世がローマ教皇ヨハネス12世により、カロリング朝的ローマ帝国の継承者として皇帝に戴冠したときから始まるとされ、高等学校における世界史教育もこの見方を継承している。
俗称:神聖ローマ
Die Kaiserhymne des Heiligen Römischen Reichs 神聖ローマ帝国皇帝讃歌 ハイドン
Deutsche Kaiserhymne 1797
Gott Erhalte Franz den Kaiser 1804 - 1918
Gott Erhalte Franz den Kaiser 神よ、皇帝フランツを守り給え
Anthem of Austria-Hungary
オーストリア - ハンガリーの国歌
ドイツの歴史学界ではこの神聖ローマをカール大帝(シャルルマーニュ)から始めるのが一般的で、その名称の変化とともに3つの時期に分ける。
カール大帝の皇帝戴冠から東フランクにおけるカロリング朝断絶に至る「継承ローマ帝国」期(800年-911年)
オットー大帝の戴冠からシュタウフェン朝の断絶に至る「神聖なる(ローマ)帝国※」期(962年-1254年)
※「Rome」という単語自体「帝国」をさす白人が語る帝国などはローマ帝国をさし、ローマは世界帝国も兼ねる。
世後期から1806年にいたる「ドイツ人の神聖ローマ帝国」期である。
これは神聖ローマ帝国の体制構造の大規模な変化にも対応している。
神聖ローマ帝国はゲルマン王国の伝統に基づいた選挙王制の形式を取っていたが
中世盛期の
上記の王朝で事実上の世襲が行われており、実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった。
神聖ローマ皇帝は独立性の強い諸侯に対抗する手段として帝国内の教会を統治機構に組み込んでいた(帝国教会政策)。
歴代の神聖ローマ皇帝は「ローマ帝国」という名目のためにかつてのローマ帝国の帝都のイタリア・ローマ支配権を唱え度々侵攻した。(イタリア侵略戦争)
当初神聖ローマ皇帝は教皇権に対して優勢であり皇帝たちは度々教皇庁に介入していたが、教会改革運動が進展すると皇帝と教皇との対立が引き起こされ11世紀後半から12世紀にかけての叙任権闘争は皇帝側の敗北に終わった。
この間に諸侯の特権が拡大して領邦支配が確立されている。
1254年にホーエンシュタウフェン朝が断絶すると20年近くも王権の影響力が空洞化する
大空位時代となり、諸侯への分権化がより一層進んだ。
14世紀のカール4世による金印勅書以降、皇帝は有力な7人の封建領主(選帝侯)による選挙で選ばれるようになりさらに選帝侯には裁判権、貨幣鋳造権等の大幅な自治権が与えられた。
この間異なる家門の皇帝が続く跳躍選挙の時代が続いたが
1438年に即位したアルブレヒト2世以降はハプスブルク家が帝位・帝爵をほぼ独占するようになった。
(ハプスブルグ帝国時代)
マクシミリアン1世(大帝/通称最期の騎士)治世の1495年から帝国改造が行われ、神聖ローマ帝国は諸侯の連合体として新たな歴史を歩むこととなる。(連邦的帝国)
16世紀のカール5世の治世に始まった宗教改革によって神聖ローマはカトリックとプロテスタントに分裂し宗教紛争は最終的に皇帝側の敗北に終わり、アウクスブルクの和議によりプロテスタント信仰が容認されるとともに領邦の独立性が更に強化されることになった。
宗教対立は収まらず、1618年に三十年戦争が勃発してドイツ各地が甚大な被害を受けた。
1648年のヴェストファーレン条約が締結されて戦争は終結し、全諸侯に独自の外交権を含む大幅な領邦高権(主権)が認められる一方、平和的な紛争解決手段が整えられ諸侯の協力による神聖ローマの集団防衛という神聖ローマ独特の制度が確立することとなった。
後、プロイセンが台頭したことにより、諸侯のバランスは崩壊し、神聖ローマはやがて機能不全に陥った。
19世紀初頭にはフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの侵攻を受けフランス帝国に従属するライン同盟(国家)に再編された。
オーストリア帝国に蔵変え
神聖ローマ帝国内の全諸侯が帝国からの脱退を宣言すると
既に「オーストリア皇帝フランツ1世(オーストリア帝国)は存続」を称していた
神聖ローマ皇帝フランツ2世は退位し帝国は完全に解体されて終焉を迎えた。