概要
ボストン大学中退で若い頃は奔放であったという。
1970年にニッポン放送に入社。その後ポニー→植村甲午郎(経団連創設者のひとりであり、フジテレビの設立にも一枚かんだ人物)の秘書を経て、1977年6月に重役としてニッポン放送に復帰、1980年に副社長としてフジテレビに移籍した。
1981年に日枝久と共に組織改革を実行し、「クイズグランプリ」と「スター千一夜」等の名番組を輩出した平日夜7時台後半の帯番組枠を81年秋季に廃枠。日替わり編成にした事で自由な編成を組める様にした。
在任中に「Dr.スランプ」、「うる星やつら」、「北斗の拳」、「タッチ」、「ハイスクール!奇面組」、「ドラゴンボール」、「めぞん一刻」、「北の国から、「オレゴンから愛」、東映不思議コメディーシリーズ、東映少女ドラマシリーズ、「月曜ドラマランド」、「欽ドン!良い子悪い子普通の子」、「オレたちひょうきん族」、「笑っていいとも!」、「なるほど!ザ・ワールド」、「夕やけニャンニャン」等、従来のテレビ番組の概念に囚われない斬新な番組を輩出し、フジテレビを視聴率トップに立たせ、13年に渡る黄金時代を築いた。部下の日枝を「立場を超えた親友」と評していた。
その一方で、ローカルセールス枠だった月曜夜7時前半と金曜夜7時前半枠の低迷は克服出来なかった。また、よそのテレビ局に遠慮しまくっていた地方局に「ニュース番組ひとつだけでいいから放送してくれない?ただ出来なかったら知らないけど」と最後通牒を突きつけた結果、手放すハメになってしまったこともあった。
南極物語等、映画とのタイアップのメディアミックス企画にも積極的で、その技法は後々の作品にも影響を与えた。
1988年4月16日、神奈川県内の病院でこの世を去った。肝炎悪化による、わずか42歳での突然の死は周囲に衝撃を与え、先の日枝は訃報を聞き慟哭した逸話もある。また、余りに突然の死に「何者かに謀殺されたのでは?」と言う都市伝説が今もある。
没後
春雄元会長の没後、父の信隆創業者が代表に復帰するも1990年10月29日に逝去。次女の娘婿である鹿内宏明が会長に就任する。
しかし、宏明はみずほ銀行の頭取を務めただけに金銭管理が厳しく、当時経営悪化した地方局への経営支援を「経営が傾いたのは自己責任である」として拒否(その後宏明解任後にネットチェンジを実行)し、また自らが出社・退社の時は社員全員で出迎える様厳命していた。余りにもワンマンで強引な手法から周囲からの反感が凄まじく1992年7月21日に日枝等反宏明派が決起、宏明会長は解任され、日枝が代表となり、ここに鹿内一族のフジテレビ支配は終止符を打った。
そして春雄元会長の没後の1994年、視聴率トップを日本テレビに明け渡し、第一期黄金時代が終わった。