ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

レインボーアカサカの編集履歴

2022-01-28 21:01:39 バージョン

レインボーアカサカ

れいんぼーあかさか

第1回テレビ埼玉杯を制した競走馬…というより、むしろ平成元年の札幌記念で1番人気を背負い大出遅れ大惨敗をやらかした事で有名な馬である。

プロフィール

生年月日1984年5月30日
性別
ノーザリー
イーデンマッチ
母の父マッチウォン
競走成績25戦7勝
主な勝ち鞍平成元年武蔵野S(当時オープン特別)/第1回テレビ埼玉杯(1991年)

血統

父はノーザンダンサー直仔種牡馬のノーザリーだが、実はこの馬は極めて気性の激しい種牡馬でも有名だった。その気性の激しさ故に誰も近寄らせず最期(死因は顔に癌が出来てしまった事)も安楽死処分にできなかったくらいである。とはいえ、種牡馬成績そのものは悪くなかった。アメリカに残してきた代表産駒はエイコーンSを制したキュープコイズジョイ、日本での代表産駒は中京記念を制したパワーシーダー阪神牝馬特別2着2回の成績を残し、後に種牡馬エイシンサンディの母となったエイシンウイザードである。


戦績

(馬齢表記は旧年齢表記)

4歳時

デビュー戦は1987年1月5日…金杯の日である。折返しの新馬戦で勝利し、3戦目の共同通信杯4歳ステークスで初重賞挑戦も6着。自己条件に戻って勝利し第47回皐月賞に挑んだものの6番人気14着と惨敗した。その後はNHK杯(現NHKマイルカップ)で日本ダービーへの出走権利取りに挑戦したものの9着に沈みレインボーアカサカのクラシックはここで終わった。以降は自己条件戦を歩み1400万条件級まで出世している。


5歳時

むらさき賞を勝利しオープン級に到達。七夕賞では1番人気に押されたものの同期の牝馬コーセイの5着に終わり1400万条件に降級。ここからやや成績が停滞する。


6歳時

自己条件の初富士ステークス、格上挑戦のバレンタインステークスを続けて3着と勝ち切れないレインボーアカサカに対し陣営は一つの決断を下した。ダート路線への転向である。ダート戦への出走は5歳時の白富士賞以来だがこれが「吉」に出た。転向初戦の東風ステークス勝利をきっかけに、勝ち切れなかった鬱憤を晴らすかの如き走りで怒涛の3連勝を決めてあの第25回札幌記念に臨んだ。


第25回札幌記念

レインボーアカサカの鞍上は乗り替わりで安田富男騎手に決まっていた。安田騎手にとっても中央競馬全競馬場重賞制覇という史上初の記録が掛かっていたのだが、安田騎手は前日に負傷のため急遽根本康広騎手に乗り替わりとなった。調教でも全く騎乗したことがないという緊急コンビではあったが、それでも2,1倍の大本命に押された。しかし…

スタート時にタイミングが全く合わずゲートに激突。痛みに悶えているところでゲートが開かれたため大出遅れとなった。結果は12頭立て1番人気で12着だった。


札幌記念以降

当時のダート戦線で安定勢力ぶりを発揮。ブリーダーズゴールドカップでは地方最強馬フェートノーザンの4着と奮闘。以降、勝ち切れなくとも根岸ステークスフェブラリーハンデ(現フェブラリーステークス)で3着の成績を収めている。そして1991年より活躍の場を船橋競馬場に移した。


船橋在籍時

移籍2戦目に出走した第1回テレビ埼玉杯(現テレ玉杯オーバルスプリント)を制し通算27戦目で待望の重賞ウイナーに輝いたが以後低迷。年末の東京大賞典で最下位に終わり引退した。


余談

120億円事件以前の1番人気大出遅れ大惨敗とくれば、必ず名前が挙がるのがレインボーアカサカだった。

・「札幌記念なのにダート?」と思われるかもしれないが、当時芝コースはまだ建設中で翌年より札幌競馬場でも芝の競走が開催されるようになった。


関連項目

競馬 競走馬 札幌記念 120億円事件


関連タグ

86世代87世代88世代

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました