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マリリン・モンローの編集履歴

2022-06-17 18:50:07 バージョン

マリリン・モンロー

まりりんもんろー

マリリン・モンロー(Marilyn Monroe、1926年6月1日〜1962年8月5日、享年36)は、アメリカのハリウッド女優。

概要

現在に至るまで永遠のアイドルアメリカセックスシンボルと称される伝説の美女。セクシーでグラマラスな肢体で世の男性を虜にする一方、無邪気な可愛らしさから女性人気も高い。セクシーな女性タレントが現れるたび、「モンローの再来」と呼称されるほど、現在に至るまで愛され続けている。


インタビューで「寝る時は何を着けているのか」という質問に「シャネルの5番」と返答したエピソードは、セクシーかつウィットに富んだ名言として特に有名。


身長166.4cm、体重53.5kg。スリーサイズはB94 W61 H86(Gカップ)。

トレードマークは、真っ赤に塗られた唇、口元のホクロ、モンロー・ウォークと呼ばれた独特な歩き方。フェラガモに作らせた靴のサイズは、24.5cm。

ブロンドのイメージが強いが、本来の髪の色はブルネット(褐色)である。


代表作は『ナイアガラ』『紳士は金髪がお好き』『百万長者と結婚する方法』『七年目の浮気』『荒馬と女』など多数。

フィルムノワール『ナイアガラ』では、彼女の代名詞となったモンロー・ウォークを初披露。


ロマンチックコメディ『紳士は-』で、ピンクのドレスに身を包んだマリリンが「ダイヤモンドは女の子の親友」を歌い踊るシーンは、マドンナのPV「マテリアル・ガール」など多方面に影響を与えた。


また、『七年目の浮気』でマリリン演じるCFタレントがふざけて地下鉄の通気口の上に立ち、舞い上がる純白のドレスを押さえる場面はあまりにも有名で、数え切れないほどのパロディ作品を生み出している。



生涯

本名ノーマ・ジーン・ベイカー。出生は複雑で、実の父親についてもはっきりしない部分があり、また母子家庭であったため、幼いころは生活苦から孤児院に預けられたり、里子に出されるなど恵まれない環境で育った。

叔母の勧めにより16歳で結婚するが、夫はまもなく兵役につき、ノーマは自活のために工場で働くようになる。そこで撮られた写真がきっかけとなり、19歳でモデルデビューし、20歳で20世紀フォックスと契約。それを機にマリリン・モンローの芸名で活動するようになる。このころ、芸能活動に理解を示さなかった夫と離婚している。


当初は役に恵まれず、ヌードモデルで糊口をしのぐ苦しい生活を送っていた。しかしチャンスを求めてコロムビアに移籍した後、エージェント(交渉代理業者。アメリカでは芸能人やスポーツ選手などの活動に関わる)のジョニー・ハイドに巡り合えたことで運命が変わる。いくつかの脇役を経た後、1953年の『ナイアガラ』で初主演。このとき披露した、腰を大きく左右に振る歩き方は強烈な魅力を発揮し、彼女が画面の奥へと去る後姿を撮影したシーンは、異例の長尺カットとなった。これが『モンロー・ウォーク』の誕生である。


その後も立て続けにヒットを飛ばし、マリリンは一躍アイドルスターとなる。しかしそのどれもが「ちょっと頭の弱い、金髪のかわいこちゃん」な役柄ばかりで、やがてマリリンは「半開きの唇とどこか焦点のずれた瞳」という固定化したイメージに苦しむことになった。


私生活では1954年に元メジャーリーガーのジョー・ディマジオと結婚。ところがディマジオはやがて「ミスター・モンロー」と揶揄されることにうんざりし、また妻がセックスシンボルとして男性の注目を浴びることに耐えられなくなっていく。


【このころ公開された『帰らざる河』で主題歌を歌う名場面】


新婚旅行を兼ねて訪れた日本でも、大衆はディマジオそっちのけでマリリンに熱を上げた。

ディマジオは仕事場には来ないようマリリンに念を押したが、寂しがり屋の彼女はつい球場(広島県総合球場)を訪問してしまう。案の定、押し掛けたモンローファンで現場は大混乱に陥った。

激怒したディマジオはマリリンを強く叱りつけ、早朝、ホテルを飛び出したマリリンが、広島の海岸をうなだれて散歩している姿が目撃されている。


その後も日本の記者はマリリンのことばかり質問し、不機嫌なディマジオは野球関係の仕事でしょっちゅう外出していた。

新婚でありながら、スターとしての人気が夫を傷つけてしまい、仲直りしたくても二人でゆっくり過ごすこともできない。そんな折に、朝鮮戦争に従軍中の兵士たちを慰問してやってほしいという依頼が舞い込み、マリリンは辛い現実から逃げ出すように、そのまま仕事に出かけてしまう。


こうしたすれ違いが二人の関係にヒビを入れることになり、さらに、『七年目の浮気』でセンセーションを呼んだ「ドレスが舞い上がり、脚が丸見えになる」場面にディマジオが激怒。結局、二人は早くも翌1955年に離婚する。

  • ただし、ディマジオは離婚後も深く彼女を愛し続けており、マリリンも精神的に追い詰められたときには、しばしば彼を頼っていた。また、高額の謝礼でマリリンとの生活を聞き出そうとする雑誌記者に対し、ディマジオは「愛の想い出を売ることはできない」と撥ね付けている。

その後、あらためてアクターズ・スタジオで学び、演技に磨きをかけたマリリンは、文学的・哲学的な作品にも主演するようになり、女優としての自信を深めた。

1956年には彼女を支えた劇作家のアーサー・ミラーと結婚するが、このころから精神の不安定さに拍車がかかる。大統領、ジョン・F・ケネディとの不倫なども重なり、1961年にはミラーとも離婚した。そしてその翌年、1962年の8月5日、自宅で謎の死を遂げることになる。


【遺作となった短編映画『女房は生きていた(英題:Something's Got to Give)』のスクリーンテスト】


マリリンの素顔

  • 寂しがり屋の彼女は電話が好きで、公衆電話からいつでも恋人に電話を掛けられるよう、大量のコインを持ち歩いていた。
  • メジャーデビュー以前に彼女の仕事上のパートナーだったカメラマン、アンドレ・ド・ディーンズは「ブロンドに染めてから、彼女本来の魅力は失われていった」と述懐している。
  • ティファニーで朝食を』で知られる小説家、トルーマン・カポーティはモンローと親交があり、主役のホリー・ゴライトリーはマリリンのイメージだとして配役を希望していた。しかしセクシー女優、セックスシンボルと呼ばれることに嫌気がさしていたマリリンは、娼婦(というか現代でいう援助交際)として生活しているホリーの設定を嫌い、断ってしまった。ちなみにホリーは原作で、「19歳から30歳のいくつにも見え、石鹸とレモンの清潔さがある」と描写されている。


謎に包まれた最期

1962年8月5日の深夜3時半頃、自宅の寝室において全裸で死亡していた所をメイドに発見されたマリリンだが、その死因については現在も謎に包まれている。


彼女が亡くなった当時はマスコミにより睡眠薬の大量摂取による自殺と大々的に報道された。

しかし、その後間もなく、何者かが彼女の死に関わっているという疑惑が浮上し始める。と言うのも、自殺と考えるには疑問の残る点がいくつも存在したためである。


例えば、睡眠薬を服用したなら、その為に水を入れたコップが部屋の中にあるはずだが、現場からは発見されなかった。そして、遺体で発見されたマリリンの手には電話の受話器が握られていたが、同時刻に彼女の通話記録は存在しない。さらに部屋からは、彼女が所有しているはずの日記が消えていた。


こうした謎が報道されるにつれ、マリリンと当時の大統領ジョン・F・ケネディとの不倫関係、そしてケネディ家とマフィア関係者との繋がりから、マリリンが何らかの政治的な機密に触れたことが原因で、口封じされたとする暗殺説が囁かれるようになっていく。


真実がどうあれ、世界中から愛された稀有なスター、マリリン・モンローの最期が、あまりにも寂しく、悲しいものだったことだけは確かである。


永遠の愛

唯一の慰めは、彼女に文字通り永遠の愛を捧げた、ディマジオの存在だろう。

マリリンとの離婚後、独身を通していたディマジオは、この事件の数日前に、マリリンとの再婚を考えていることを友人に打ち明けている。彼はマリリンの死に大統領兄弟が関係していると確信しており、終生二人を憎んでいた。


ディマジオはその後20年にもわたって、彼女の墓に愛を表す真っ赤なバラの花を送り続けた。彼は肺がんにより84歳で世を去ったが、見舞いに訪れた友人に「死んだらマリリンのところへ行ける」との呟きを遺し、愛する妻のもとへと旅立っていった。



関連タグ

女優


アインシュタイン…マリリンが告白したことがある

水木しげる…マリリンのファンであり、本人役も含めて吸血鬼ピーの妻モンローなど、マリリンを題材にしたキャラクターなどを何度も描いていた。

向井真理子…出演映画の日本語吹き替えを多く担当した声優。

鏡魅羅…単なる偶然とは思われるが、身長及び3サイズが近似値。


マリリン・モンローの再来と言われている人物

アンナ・ニコル、・スミス

エヴァ・ハーツィゴヴァ

スカーレット・ヨハンソン

マドンナ

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