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ミハイル・ゴルバチョフの編集履歴

2022-09-01 22:57:15 バージョン

ミハイル・ゴルバチョフ

みはいるごるばちょふ

ソビエト連邦の政治家。同国第8代最高指導者。

概要

ミハイル・セルゲイヴィッチ・ゴルバチョフ(ロシア語:Михаи́л Серге́евич Горбачёв、ラテン文字表記:Mikhail Sergeevich Gorbachev)は、ソビエト連邦の政治家。1985年3月から1991年12月まで同国の第7代最高指導者であった。中央委員会書記長、最高会議幹部会議長、初代最高会議議長、初代大統領を兼務した。最後の党書記長(赤い皇帝・独裁者)・最初で最後の大統領として有名である。


1985年3月に書記長に就任した当初は穏健的な改革志向者でしか無かったが、1986年4月にチェルノブイリ原子力発電所事故が発生し、その報告が自分のところに来たのが外国の公式発表より遅かった。その事からソ連の官僚機構の腐敗ぶりを痛感し、グラスノチ(情報公開)・ペレストロイカ(建て直し)を提唱して急進的かつ大胆な改革者に変貌した。


それまで、共産党に忠実な人間であったが、以降はソ連を民主主義国家に刷新していくことに邁進していく。


その結果アメリカを初めとする西側諸国との関係は急激に改善されたが、国内的には情報公開はレーニンスターリンから続くソ連の栄光の歴史を誇りにしている保守派と、政治的自由を得た民族主義的独立派の双方の怒りを買う羽目になった。

────と、西側国家では評価されがちだが、これだけでは不正確である。氏はソ連そのものの解体は望んでおらず、これまでクレムリンが牛耳ってきたソ連構成国に対して、より多くの権限を与える「新連邦条約」を締結し、アメリカのような国家体制に転換しようとしていた。氏にとっては、アメリカですら不満足と考えており、ソ連構成国のそれぞれの民族に合わせた体制を築くべきと考えていた。


この時点では、バルト三国など、歴史的に大ロシアに支配されていた地域が反発する一方で、多くのソ連構成国は新体制を歓迎していたウクライナでも、連邦制の維持について問う国民投票において、約70%の賛成票が投じられていた。つまり、氏の改革による「民主化されたソ連」は、この段階では民族主義者にも一定の評価を受けていたのである。


1991年8月の8月クーデターでは、ゴルバチョフの側近を含む共産党官僚が多数参加した事から共産党の求心力が完全に失墜し、崩壊へと一直線に進んだ。

しかし、これを以って氏がソ連を崩壊させたと取る向きがあるが、これらの流れを評価するならば、実際にソ連を崩壊に追い込んだのはゴルバチョフの政治理念を理解できなかった守旧派である


2014年のロシアクリミア併合では、プーチン政権を支持し、ウクライナから5年間の入国禁止を言い渡された。だが、当時のウクライナ政府は腐敗と怠惰がはびこっており、ウクライナ国内は騒乱状態にあり、ヤヌコーヴィチ大統領(当時)は国外逃亡していた。

しかし、2022年の宇露戦争に際しては、ゼレンスキー政権が断固としてウクライナの主権を守ると表明すると、ゴルバチョフは自身の平和基金団体を通じて、即時停戦を呼びかけた。


2022年8月30日、91歳で死去。ゴルバチョフの死によってソビエト連邦の最高指導者は全員この世を去った。


経歴

1931年3月2日にソビエト連邦のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のスタヴロポリ地方プリヴォリノエにて、コルホーズ(農業集団化政策)の農民の子女として誕生する。1950年9月にモスクワ大学法学部に入学し、1955年6月に同大学を卒業した。1952年10月に共産党に入党する。


1955年8月にスタヴロポリ市コムソモール第一書記、1962年3月にスタヴロポリ地方コムソモール第一書記、1966年9月にスタヴロポリ市党第一書記、1968年8月にスタヴロポリ地方党第二書記を経て、1970年4月にスタヴロポリ地方党委員会第一書記に就任し、1971年3月に40歳で党中央委員に選出される。


1978年11月に急死したフョードル・クラコフ政治局員・書記の後任として、党中央委員会農業担当書記に抜擢される。1979年11月に政治局員候補、1980年10月に政治局員となった。1983年4月にレーニン生誕113周年記念集会での演説を任せられ、これ以前にアンドロポフが演説していた。


評価

西側諸国では自由主義的な改革姿勢から絶大な人気を誇っているが、一方でロシアを筆頭に旧ソ連諸国では就任当初を除いて、在任中から現在まで不人気であり続けている。これは世界を二分する超大国であったソ連を、急激な改革で崩壊させた張本人であると認識されているからである。それに国営企業がほとんどの共産主義国で育った大人たちにとって、私営企業が乱立する自由主義経済というものがとても理不尽で受け入れ難いものであった。


曲がりなりにも超大国であったソ連に誇りを抱いていた者も多く、超大国から没落した無念・先述の経済混乱により、ソ連時代を懐かしむ者も多かったのが不人気の一因となっている。


家族

1953年9月にライーサ・マクシモフナ・ティタレンコと結婚し、1957年1月に娘のイリーナが誕生した。ライーサ夫人はモスクワ大学の哲学科の学生で、ゴルバチョフとはこの大学で出会った。


余談


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