概要
1974年3月19日生まれ、神奈川県出身。競馬界とは関係のない家庭で生まれ育ち、将来はフランス料理のコックになることも考えていたが、母親がたまたま競馬学校のドキュメンタリー番組を視聴しており、競馬学校進学を勧められる。
1992年デビュー、1994年シルクグレイッシュで福島記念を制し重賞初制覇。
しかし若き日の横山典弘騎手に似ていて、若さゆえか素行が悪く性格にも波があった、所属厩舎の師匠(伊藤正徳)と確執が起こる(競馬界に関係がなくコネがない後藤に、師匠はあえて厳しく接していた事が伝わっていなかったのもある)。
1995年伊藤厩舎を出てフリーになり、1996年に武者修行という格好で単身アメリカに渡り、半年間マイアミなどの競馬場を転戦。1997年確かな技術を身に着て帰国すると46勝を挙げる、1998年には63勝を挙げ初の関東リーディングトップ10入りする(最終的には6位)。
だが1999年8月19日、吉田豊騎手に対して、あの木刀事件を起こしてしまう。
事件の内容的に干されかねない大事だったが、かつての所属厩舎で確執があった師匠(伊藤正徳調教師)が各地に謝罪に回り後藤騎手を競馬界から追い出さないように働きかけた事で、なんとか留まる。その事を後で人づてに聞き人間的・精神的成長を果たし後に和解する。
ちなみにこの事件での処分内容は、騎乗停止4ヶ月であった。
2000年ユーセイトップランでダイヤモンドSを勝ちトレセン火災で被害にあった同厩馬エガオヲミセテへの追悼勝利を挙げ、ゴールドティアラで南部杯を圧勝しGⅠ制覇、初の年間100勝も達成し関東リーディング2位。
2001年シンボリルドルフの記録を超えさせないために、テイエムオペラオーに対して危険な騎乗をしていた時期で、その巻き添えで京都大賞典ではナリタトップロードの渡辺騎手を落馬させてしまう。
2002年キングザファクトでダイヤモンドSを勝った時はアブトロニックをつけ勝利騎手インタビューに答えるパフォーマンスをし、アドマイヤコジーンで東京新聞杯や阪急杯を勝った時もハチマキを巻いてインタビューに答えるパフォーマンスをした。アドマイヤコジーンで安田記念を勝ち、デビューから11年目でついに中央GI初制覇を果たす。息子のように可愛がってもらっていた、近藤オーナーの馬での勝利でもあった。
2003年吉田豊騎手との因縁は続いていたのか、秋の天皇賞で大暴走し13着に惨敗、ローエングリンを下ろされてしまう。
2004年マイネルレコルトで朝日杯FSを制覇しGI3勝目。
2005年七夕賞を1番人気のダイワレイダースで勝利し、同レースの1番人気26連敗記録を止めた。
2006年JCダートをアロンダイトで勝ちGI4勝目。
2007年、一度は降ろされたローエングリンに再び騎乗出来るようになり、中山記念で復活勝利に導き伊藤調教師の恩情へ応えた。この年に関東リーディング1位となり、リーディングジョッキーとなる。
2010年安田記念をショウワモダンで勝ちGI5勝
2011年エリンコートでオークスを制しGI6勝目。
2012年、5月と9月の2度の落馬により大怪我を負い、以降は治療に専念。
2013年エスポワールシチーで南部杯を制しGI7勝、JBCスプリントも制しGI8勝。
2014年4月にまたも落馬で大怪我を負う。11月復帰後初勝利。
2015年2月27日、自殺により死去。死去の報が流れると中央の騎手だけでなく、地方の騎手からも哀悼の意が示された。
シゲルスダチとのエピソード
2012年のマーガレットステークスでは7番人気に留まっていたシゲルスダチを見事1着へと導いた。その後GIレースのNHKマイルカップに出走するも、マウントシャスタ(鞍上:岩田康誠)の斜行の影響を受けて転倒し、後藤が落馬する。
馬は群れで生活する生き物であり、騎手が落馬しても構わずにカラ馬で他の馬を追いかけていくことが多い。しかしシゲルスダチは落馬し、ターフ上にうずくまる後藤を心配するようにその場から動かず、寄り添う仕草を見せた。これが競馬ファンの話題を呼び、シゲルスダチの知名度を上げた。
その後2013年の奥多摩ステークスで後藤とタッグを組むが9着に終わる。2014年は後藤の怪我でレースでの騎乗は叶わなかったが、10月に調教騎乗という形で鞍上に復帰。翌月の奥多摩ステークスは武士沢友治が騎乗し、その次のレースに後藤が騎乗する予定となっていた。
11月の奥多摩ステークスは武士沢友治を鞍上に迎えて出走。最後の直線で一番スピードが乗った所で急減速。どうにかゴール板の前を通過できたが、脚を脱臼して予後不良の診断が降った。
このレースで後藤は騎乗していなかったが、解説者として東京競馬場解説席に招かれており、相棒の最期を看取る事となった。