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ウォルト・ディズニーの編集履歴

2023-01-26 01:02:14 バージョン

ウォルト・ディズニー

ゆめのくにのかみさま

アメリカのアニメーター・映画監督で、ディズニーグループの創始者。

概要

アメリカ合衆国の漫画家、アニメ製作者、映画監督、実業家。本名、ウォルター・イライアス・ディズニー(Walter Elias Disney)。アイルランド系アメリカ人として、1901年、イリノイ州シカゴに生まれた。


世界的なエンターテインメント企業である「ウォルト・ディズニー・カンパニー」の創設者。生涯の友人であったアブ・アイワークスととともに、その代表的アニメキャラクター「ミッキーマウス」を生み出した。


夢の国で知られるレジャー施設「ディズニーランド」を作ったのも彼の発案である。


アニメーション、芸能、映画、レジャーなど、おそらく20世紀における文化面で卓越した功績を挙げた人物と言える。

略歴

1920年、19歳の若さでアニメーションスタジオを創業。アイワークスをはじめとするアニメーターを呼び寄せ制作したオリジナルアニメは高い評価を呼ぶが、制作に没頭する余りに資金のやり繰りが乱雑になりスタジオは倒産してしまう。


ウォルトは兄のロイ・ディズニーと共にハリウッドで再起を目指し、1927年、ユニバーサル・ピクチャーズの配給で「しあわせウサギのオズワルド」を制作。子供の間で大ヒットを飛ばし、一躍ディズニー社躍進の切っ掛けを作った。


しかし、ユニバーサル社との仲介をした興行師チャールズ・B・ミンツが法外な配給手数料を支払う様に要求、ウォルトがこれを拒否すると露骨な社員への引き抜き工作を仕掛けた。アイワークス以外のアニメーターたちはこれに応じてしまい、ディズニー社は崩壊寸前の状態となる。


アイワークスとの二人三脚でディズニー再建に取り掛かったウォルトは、「ミッキーマウス」を生み出し新たな看板キャラクターに据える。初期作品において、秀逸な動きの描写をアイワークスが書き出す一方で、ウォルトは演出面で高い才能を発揮した。なお、初期の映画ではウォルト自身がミッキー・マウスの声優を演じていた。


対照的に、ウォルトの演出とアイワークスの作画を失ったオズワルドは次第に人気を失い、1930年代にはその人気を完全にミッキーに取って代わられる事になる。



1930年代に入り、アニメーション稼業を更に発展させるべく、音楽に重点を置いた「シリー・シンフォニー」シリーズ、その内の一作である世界初のカラーアニメーション「花と木」、主題歌「狼なんかこわくない」と共に大ヒットした「三匹の子ぶた」など、歴史的に重要な作品を連発した。


やがて、長編アニメーション映画への野心が芽生え、1934年に「白雪姫」の製作を始める。当時は前例のない未曾有の企画だったため、リスクが多すぎるとして周囲からは猛反対が起こったが、友人のチャールズ・チャップリンの協力もあり、製作期間3年を経て1937年に公開。映画史上初の長編アニメーション映画となった「白雪姫」は、数多くの賞賛と大ヒットを記録し、ディズニー・スタジオの名声を確固たるものにした。


だが、同時期に巻き起こっていた労働問題の波に呑まれ、他の企業と同様にディズニー・スタジオでもストライキが勃発する。当時の労働者の権利については旧式の考えのままだったウォルトはこれに憤慨、組合潰しに全力を注ぎ、不当労働行為を繰り返した。しかし、当時の世論は労働者側に同情的であり、ディズニー作品のボイコット運動が起きるようになると流石のウォルトも折れ、労働者の賃上げを約束したことで1941年7月30日に収束した。この一連の騒動による精神的打撃は相当だったようで、極度の鬱状態に陥ってしまったという。

この頃より、アメリカの負の歴史に大きく関与するようになってしまう。


ストライキで多くのスタッフを失い、長編製作のメドが立たなくなった折、アメリカが第二次世界大戦に参戦。それと同時にディズニー・スタジオは日本軍の攻撃に備える拠点として米軍に接収され、アニメーション製作に軍人が介入するようになり、プロパガンダ作品の製作を余儀なくされる。

当初ウォルトは大激怒していたが、このプロパガンダ製作には次第に熱心になっていったと当時のスタッフは振り返っている。


終戦後の1947年、プロパガンダ作品の乱発によって創造性を失ったウォルトはそれまで以上にアニメーションに関与しなくなり、赤狩りへと次なる情熱を向けて非米活動委員会の友好的証人として全面協力する。同年ついにミッキーの声優を自ら降板してしまい、周囲のスタッフからは「もうエンターテイナーではなくなってしまった」と落胆された。




映画産業を退いたウォルトだったが、新たな事業に目をつけ、再び注目されることになる。

1950年代、かねてより温めてきたテーマパークの建設を始め、世界各地の遊園地を視察しながら構想を練っていった。

更に、当時一般家庭に普及したばかりのテレビの可能性を考慮し、局と結託して特別番組やテレビシリーズの製作を始める。特に1955年に放送を開始した「ミッキー・マウス・クラブ」は、視聴率50%超えの大ヒットを記録、社会現象となった。こうして、映画のみに留まらないメディア・ミックス戦略でも大きな成功を収め、ウォルトは完全復活を遂げた。

そしてついにカリフォルニア州アナハイムにて、自らの名を冠したテーマパークであるディズニーランドを開設し、現在まで続く多面的な経営の基盤を作った。


晩年に突然映画界に舞い戻り、これまでのキャリアの集大成的映画「メリー・ポピンズ」を製作。1964年に公開された本作は、死の間際にウォルトが再びアーティストとして回帰した最後の作品であり、彼の生涯における最高傑作のひとつとして迎えられた。

1966年12月に肺炎の為死去。享年65歳。

人物

会社に関しては、「お互いに助け合う家族のような関係」を目指しており、自身のことも気さくに呼び捨てで接するように呼びかけていた。しかし、作画を行わくなくなった後もクレジットの「作画」の部分に自身の名前を載せたり、ファンにミッキーの絵を求められるとスタッフに描かせてサインだけ自分でするなどといった言動からスタッフの不満を買い、ストライキの発端を生み出してしまうこともあった。ただし、兄の目を盗んで勝手にスタッフの給料を上げたりするなど、彼なりにスタッフに対する想いは強かったようである。

また、現在では価値観が異なるとはいえ、当時の基準で見ても人種差別的、及び性差別的な言動が散見され、作品の一部にもそうした差別意識が反映されており、批判を受けていることでも有名である。


敬愛していた人物はエイブラハム・リンカーンチャールズ・チャップリン。元々俳優志望だったウォルトは、リンカーンの演説を暗唱して校長から気に入られたり、地元のチャップリン物真似コンテストで優勝するなど、幼少期よりエンターテイナーとして頭角を現していた。

4歳の頃、家族揃って引っ越したミズーリマーセリーンの農園で5年近く過ごしたことから、自然や動植物を愛しており、よく田園の風景を夢中で描いていたという。このマーセリーンの暮らしがウォルトの人間形成の基盤となり、「人生に影響を与えた出来事はすべてマーセリーンで経験した」と述べるほど、自身の生涯のルーツとなった。

子ども好きであり、子どもと同じ目線で演技指導をすることを心がけていた。本人も少年の心を忘れない人物と評されることがある。

大の鉄道マニアとしても知られている。マーセリーンで生活していた頃から蒸気機関車に憧れており、機関士だった叔父が線路を通る度に線路脇まで走って手を振っていた。1948年には自宅に鉄道のレールを敷いて機関車を運転し、客人をもてなしていたという。


性格は明るく楽天的であり、どんな苦境に立たされても諦めないポジティブ精神の持ち主だった。このような前向きで貪欲な姿勢が「誰もやっていなかったこと」を求めた結果得た功績に繋がっている。

功績

製作手法

プロデューサーとして知られているウォルトだが、資金の管理以外でも、深く映画作りに関わっていた。

1930年代に作画と演出を降板して以降、アニメーターの1人が開発したストーリーボードを用いてスタッフ全員で話し合い、多くのアイデアを出しながら物語を展開していくという方法を取っていた。この方法は、現在の映画界では当たり前のように使われているが、初めて導入したのがディズニー・スタジオだといわれている。

作品製作に妥協は許さず、長期間かけて描いたシーンも容赦なく破棄するなど、納得がいくまで表現を求め続けたという。

ストーリー会議の際は、スタッフ達の前でウォルトがたった1人ですべてのキャラクターを、最初から最後まで演じ切り、それをスタッフがアニメーションという形で表現するという、極めてエキセントリックなスタイルで行われた。当初は俳優に憧れていただけあってかウォルトの演技力は相当優れていたと伝えられており、当時のスタッフからは「彼はいい俳優かコメディアンになれたかもしれない」「いろんな役を誰よりもうまく演じてみせた」と語っている。

アニメーター育成

アニメーターの教育システムの確立もまた、ディズニーの重要な業績のひとつとして知られている。1932年、ウォルトは自身の要望を理解し、実現する人材を得るために、スタッフの提案でディズニー美術学校を発足した。さらに1961年カリフォルニア芸術大学設立の際も多大な援助を行い、同校からはジョン・ラセターを始めとした多くの才人が輩出された。

技術革新

最新技術に対する姿勢も非常に積極的だった。トーキー映画が話題になっていた1920年代末期、全編音楽と効果音を流し、動物のキャラクターを人間の声で喋らせた「蒸気船ウィリー」や、当初は経費がかかるだけで商業的価値がないと見放されていた総天然色での製作が行われた「花と木」、1932年に実現した当時から興味を抱いていたステレオ録音技術を初めて導入した「ファンタジア」など、多くの作品にその革新性が見られる。

メディア展開

1936年までの間、ディズニー・スタジオの支援社だったユナイテッド・アーティスツが将来のテレビ放映権を保持することを主張したのに対し、当時まだテレビが家庭に普及していないにも関わらず、放映権を渡したくなかったために契約を打ち切ったことから、テレビ時代の到来を予見していた先見の明であったといわれている。

ウォルトはこの時からテレビの可能性に注目し、1947年には全ての役員室にテレビを置き、放映権の保有に固執した。映画界では「テレビのせいで人々は映画館に行かなくなる」と敵視されていたが、そんな中ウォルトは「新しい映画の観客層を開拓するために、その可能性を積極的に活用していく」と主張し、新作映画の宣伝やテレビ放送など、現在主流となっているタイアップの多くを確立した。

テーマパーク

史上最も有名なテーマパークであるディズニーランドの建設にあたり、ウォルトは各地の遊園地を研究し、本格的なテーマを持ったアミューズメントパークという、前代未聞の企画を実現させた。パークの専門家ではなく、航空機工事の関係者を呼び寄せたり、オーディオアニマトロニクスを導入するなど、それまでにない画期的な発想を用いて建設に携わっていた。

関連人物

チャールズ・チャップリン

喜劇王」の名で知られる映画監督。ウォルトにとって幼少期からのヒーローであり師匠。映画製作やパーク建設において、多大な影響を受けたことで知られている。

チャップリンもまた、ディズニー映画のファンであり、ウォルトの才能を高く評価し、数多くのアドバイスを授けた。1932年に初めて出会い、以降2人は親友となる。「白雪姫」製作時は周囲から反対の嵐だったが、唯一ウォルトを後押しし、資料の提供を行なったのもチャップリンである。

ウォルトのストライキ騒動にチャップリンがショックを受けて以来、2人が対面することはなくなってしまったが、ウォルトの方は晩年までチャップリンを恩師として慕っており、チャップリンもまた、未完の映画「フリーク」製作時に「メリー・ポピンズ」を参考にするなど、両者の関係が完全に途絶えることはなかった。

アブ・アイワークス

ウォルトの長年のパートナー。1920年代にカンザスシティの広告会社にて出会った。入社の際、採用試験として自身の名前のレタリング文字を4通り描いたウォルトは、先に入社していたアイワークスにどれが一番良いか尋ねたところ、「ウォルト・ディズニーだ」と答えられたため、この時初めて現在知られる自身の名を名乗ることになる。その後、共にしあわせうさぎのオズワルドミッキーマウスを製作し、黎明期のアニメ界に名を馳せるコンビとして知られるようになる。一時は喧嘩別れもしていたが、ウォルトが亡くなるまでの間常に彼を支えていた。

フライシャー兄弟

担当声優

彼の声を吹き替えた担当声優は以下の通り。


関連タグ

タグとしてはほぼ「ディズニー」が使われている。

ディズニー

映画監督 アニメーター プロデューサー 演出家 声優

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