ネロ・カエサル・アウグストゥス
ねろかえさるあうぐすとす
NERO CLAVDIVS CAESAR AVGVSTVS GERMANICVS
名前 | ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス 通称ネロ(帝) |
ラテン語 | Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus |
名称 | ネロ・クラウディウス・カエサル・ドルスス・ゲルマニクス |
Nero Claudius Caesar Drusus Germanicus | |
世没 | 37年12月15日 - 68年6月9日 |
在位 | 37年12月15日 - 68年6月9日 |
ネロ様は『やればできる子』
第5代ローマ元首カエサル家(アウグストス家)最期の当主(5代) 通称ネロ(帝)
貴公子として即位
16歳で元老院から元首に指名された後の5年間は『ローマを良く収めた』という伝説がある
治世初期
芸術に親しみ放蕩する、ゴージャスであり東方古代ギリシャ崇拝のせいで美男をを寵愛していた。
少年愛である・・。
ギリシア文明・ギリシャ神話・アレキサンダー大王にあこがれていたからだといわれる。
当時の大火災をキリスト教徒に罪を着せ虐殺。その恨みは今日のキリスト教も許されていない。
ただその大火災を復興したのはネロ帝である。
その後ネロ自身の心境が困惑し市民からも罵倒されるに至り。
元老院を機能停止に追い込み。 ネロ自身の身の危険を感じて
治世中盤
古代ギリシャへのあこがれが強くなり巻き毛頭になる。
(アムロ・レイみたいな鴨型である)
ネロの権力は元老院議員の生死まで関わる問題となった。
62年に法務官職にあった者が宴席でネロの悪口を言った咎で死刑される事から始まり
パッラスを含む多くの元老院議員が処刑された。
65年に元老院議員ガイウス・カルプルニウス・ピソを皇帝に擁立する計画が発覚し、ピ
ソに連座してセネカが自殺を命ぜられている。
こうして55年のブリタンニクスの殺害に始まり、
- 59年に母(アグリッピナ)
- 62年に妻(オクタウィア)
- 65年にセネカを殺害
- 加えて64年に発生したローマ大火の犯人としてキリスト教徒を迫害・虐殺
上記のことから後世からは暴君として知られるようになる。
新約聖書の『ヨハネの黙示録』に見られる獣の数である666はネロの別名であるネロ・ケーザル(カエサル)を意味するとされる。
ネロ・ケーザルはヘブライ文字ではNRVN QSRと表記し
それぞれ50、200、6、50、100、60、200の数を意味し合計すると666になるためである。
ネロには四頭立て戦車の騎手や竪琴の歌手という、
当時の社会では蔑まれていた芸人になりたいという願望があった。
59年には「青年祭」という私的祭典で演奏、翌60年には音楽、体育、戦車の三部門からなる「ネロ祭」を創設、64年にはナポリで初めて公式に舞台に立った。
65年の2度目の「ネロ祭」でも自ら詩を披露し竪琴を演奏した。
66年にはユダヤで大反乱が勃発する中9月から68年初までギリシアに武者修行に出ている。
イタリア凱旋時には、娯楽に飢えていた民衆に大歓迎されている。
ただしこの間、上流人士にも芸を強要したため
元老院議員や騎士の間ではネロに対する軽蔑や屈辱感が高まっていた。
68年3月、ガリア・ルグドゥネンシス属州総督ガイウス・ユリウス・ウィンデクスによる反乱が勃発、
波及して各地の属州総督がこれに次々に同調した。
ローマへの穀物輸送が絶たれ民衆の怒りも高まる。
治世末期
国家の敵宣告
ネロはエジプトへの逃亡を決意するが、
近衛隊や側用人からも見放され6月8日夜には元老院からも「国家の敵」即ち公敵としての宣告を受ける。
ネロはローマ郊外の別荘に逃れるが、
翌9日未明、騎馬兵が近づく音が聞こえるに及び自らの喉を剣で貫き自殺。
遺骸はその後マルス広場に葬られたとされる。
ネロが自死した6月9日は前妻オクタウィアが死去したのと同日であった
民衆の支持
ローマ人は驚くべきことだが『ネロ』を嫌っていなかったという
死亡後の墓には『ローマ人』の献花が後をたたなかったという・・・
「黄金の五年間」
- 就任当初無二の名君と謳われていたが、我欲が強くローマを暴政の下に混乱させ、キリスト教徒を迫害したため暴君の典型とされている。
- 実は芸術、特に歌唱を愛しており、民衆を無理やり集めてリアルジャイアンリサイタルを開いたこともあった。
- しかも腕前のほどは下手の横好きレベルである。
強すぎた母親
- なお、これほどまでに彼が歪んだ背景には、彼をも軽く凌ぐ悪辣っぷりで歴史にその名を刻む母アグリッピナの存在がある。
- 高すぎる教養ゆえに政治的野心を強く燃やし、かなりのやりたい放題をやらかした上、傀儡政治を企てようとしたり
- 自分の地位を守るために息子ネロへ近親姦を持ちかけたりと、あまりの過干渉ぶりにネロも暗殺を計画するほど。
性格・・・
宝石がだ~いすき
宝石趣味があるとされおびただしい宝石で
身の回りを飾り立てる嗜好があったと言われている。
中でも蛍石が大好きで気に入ったものはどんな手段を使っても手に入れていた、
ある執政官はネロに取られたくないばかりに蛍石製の柄杓を死の直前に叩き壊してしまったと伝えられている。
オリンピック選手の優勝『出来レース』
オリンピア競技に出場、優勝した(ただし主催者側が大胆な出来レースとした。
獲得した栄冠は1800にも及んだ。この勝利には不正が多くあった事から様々な批判が存在したとえ敗れても勝利とされ戦車競技では戦車から落下して競争から脱落しながらも優勝扱いになってさえいる)。
『オリンピア祭』に対抗・・・
4年に1度開かれるオリンピア祭に対抗し5年に1度開かれるネロ祭を創設した。内容は体育、戦車競技の他に音楽部門の3つがあった。その内ネロは竪琴、詩、弁論の3種目に出場した。
元老院は皇帝がそのような行動をするのを阻止しようと出場の有無を問わず優勝の栄誉を授けようとしたが、ネロは堂々と出場して勝利するとこれを拒否した。結局、優勝者が誰になったかは不明である。
皇帝の得意
歌が得意で、数千人に及ぶ観衆を集めコンサート(ワンマンショー)を開くのが趣味だった。
真偽ははっきりしないが死ぬ直前に言ったとされる「何と惜しい芸術家が、私の死によって失われることか」という言葉は有名。
よみがえりネロ
更にネロが自刃した直後に現れた追っ手の百人隊長がすでに死んだ(と思われた)ネロに危害を加えるのは流石に人の道に反するので遺体を丁重に扱うためにマントを掛けようとした。
すると突如ネロが目を見開き「遅かったな。しかし、大儀である」と言い残し、目を見開いたまま絶命した。百人隊長はその死に様に恐怖したと言う。
鳥類マニア、飽きたら『食べる』
ネロは無類の鳥類マニアで特にオウムやインコの類に目が無かった。もっとも金に飽かして集めたオウムやインコの殆どは天寿を全うする事無く、幾許かの日数飼育された後、飽きてしまったネロによって殺され、食べられてしまったと伝えられている。
近親姦?
ガイウス・スエトニウス・トランクィッルスが『皇帝伝』に載せた話から、よく母親に近親姦をされた例として引き合いに出される。また後半生の悪行は、親友オトの前妻で再婚相手の皇妃ポッパエア・サビナによるものとする説も多い。
死後
ネロの死によってユリウス・クラウディウス朝(アウグストォス家)は断絶。ローマは内戦状態に陥りユダヤ属州やゲルマニアでも反乱が勃発、戦乱期に突入することとなる。
死後に皇帝ドミティアヌスに乗り移ったという伝説の他
帝国内及びパルティアにおいて「偽ネロ」の出現が相次いだ。