史実
『史記』秦始皇本紀によると紀元前225年、秦王政の命を受けた李信と蒙恬が20万の大軍を率いて楚に進攻したが、項燕はこの二人を破り、秦軍は殆ど全軍が覆没した。
紀元前224年、政の要請で李信と交代した王翦が新たに60万の大軍を率いて楚に進攻。
王翦は堅守・不出の戦術を悟って採用し、項燕の防備に隙ができるように仕向けた後、項燕の軍を奇襲して楚軍を大破。
楚王負芻は俘虜となったが、項燕は淮水以南で負芻の異母兄弟である楚の公子昌平君を楚王として擁立して反抗した。
次の年、王翦は楚軍を追撃。昌平君、項燕ともども戦死し、ついに楚は滅亡した(『史記』楚世家では項燕の死後に負芻が捕虜となっている)。
フィクションでの項燕
キングダム
62巻現在において姿は見せていないが、存在が示唆されている。
王齕が楚に侵攻した際の総大将として登場したが、この時は副将の汗明に王齕を迎え撃たせたため本人は戦っておらず、秦国では箝口令により王齕の敗戦と汗明の存在が知られていないことから、こちらもまた秦国では存在が隠されていることが示唆されている。
また、函谷関の戦いの敗報を受けた楚王・考烈王が、廉頗を出し惜しんだのが愚かだったのかと廉頗に問い、廉頗は「出し惜しみと言うのなら大将軍・項燕の方であろう」と答えている。
春申君暗殺後に媧燐に宰相になるように李園が頭を下げた際の台詞にも楚の東の大将軍として登場しており、「中華最大規模を誇る楚軍はまだその力を最大限に生かしきれていない」と李園に告げていた。
項燕のこの考え方も含め、後に媧燐は李園とともに一時的ながら楚の宰相の一人として尽力することになる。
達人伝
春申君の配下として邯鄲への援軍に赴いたのが初登場。非常に強いが粗削りな部分がある。以降は信陵君や春申君による対秦連合軍にも参加。「丹の三侠」死後のエピローグでも登場している。若い時は強いがどこかユーモラスなキャラであり剣を折るのは茶飯事だった。息子の項梁については「わしが(厳しく)育てた」模様。