経歴
生没年不詳。
生年は大永3年もしくは4年(1523年もしくは1524年)との説もある。越前朝倉氏の家臣・冨田影家の長男・五郎左衛門として生まれた。
元服して朝倉氏の家臣として仕えていたが、30歳を過ぎた頃に眼病を患ってほぼ盲目となり、家督を弟の景政に譲り剃髪。景政の息子は戦死したため山崎重政が景政の娘と結婚して婿入りし、冨田重政として跡を継いだ。
剃髪後は「勢源」と号し、冨田五郎左衛門入道勢源と呼ばれた(戸田清元とも)。
斎藤義龍の剣術指南役・梅津某が勢源に試合を申し込んできたが、勢源は「眼病を患っている私の腕前などたいしたことがないので、小太刀の技が見たかったら越前に行ってはどうか」と答えた。これに腹を立てた梅津は「勢源など恐れるに足りない。私なら試合となったら主君でも容赦はしない」と罵り、それを聞いた義龍が激怒し、勢源に試合を受けるように要請した。
試合は検視役を務める武藤淡路守の屋敷の庭で行われ、勢源の得物は武藤家の屋敷に積まれていた薪から1本抜き出して革を巻いたものであった。
試合が始まって早々、梅津は小鬢から二の腕、頭と打たれて血まみれになり、木刀は踏み折られてしまった。脇差を抜いて突きかかったが躱され、再び頭を打たれて斃れた。
義龍は勢源に褒美をとらそうとしたが、「中条流は勝負差止めなのに試合をしてしまったので」と断った。
佐々木小次郎の師という説もある。
一刀流の開祖となる伊藤一刀斎の師・鐘捲自斎(鐘巻流)も勢源の弟子とされるが、弟・景政の弟子だという説もある。
冨田流
勢源の祖父・長家は大橋勘解由左衛門高能から中条流を学んだ。
中条流嫡伝は高能から山崎右京亮昌巌へ継承されたが、昌巌は戦死してしまい、長家が後見人となり、昌巌の子ら(山崎右京亮景公と山崎内務丞景隆)に中条流を教えた。
冨田家は影家や勢源、景政、重政など達人を輩出したため、中条流は次第に冨田流(とだりゅう)と呼ばれるようになった。
ただし、冨田家では「中条流」を名乗っており、冨田流の流れを汲む流派も中条流を名乗っていることが多い。