概要
糜家の先祖は代々利殖に励み、家は非常に裕福で巨億の資産を有していたという。
徐州牧の陶謙に兄と共に仕えていたが、陶謙の死後は小沛に駐屯していた劉備を新たな徐州牧に兄と共に迎える。
赤壁の戦い後は、劉備が荊州南部を領有する過程で糜芳は武陵太守に起用されたとのこと。また、おなじく徐州出身の諸葛亮とともに劉備軍の後方支援を担当することになった。
劉備が益州に入った後、関羽は荊州総督となった。糜芳は南郡太守に任じられ、公安を守る士仁(演義では「傅士仁」)と共に荊州の防衛を任された。しかし関羽が彼らを軽んじていたこともあり、かねてから折り合いが悪かった。
関羽が北上して樊城攻略を開始すると、糜芳と士仁は物資補給などを行なうだけで、全力で支援しようとしなかった。また、南郡城内で火事が発生して物資を燃やす失態を起こす。これらの不始末を聞いた関羽は「帰ったら処罰してやる」と、糜芳を激しく咎めた。
これ以降、糜芳は関羽を恐れるようになってより一層険悪となり、このことを知った呉の孫権が糜芳と内通するようになり、ついには士仁とともに呉へ寝返った。
これ以後、糜芳は呉の将として仕えることになった。223年には孫権の命で賀斉の配下の武将となり、反乱軍を討伐していた。
ちなみに、糜芳らは蜀呉二ヶ国で裏切り者として笑いものになったという。特に呉の重臣・虞翻はとりわけ厳しく接しており、虞翻が糜芳と船ですれ違った際、糜芳の部下が「将軍の船のお通りだ」と言うと、虞翻は「裏切り者で任された城を守れなかった奴が、どうして将軍を名乗っている?(要約)」と罵倒した。また、ある時に虞翻が糜芳の軍営の前を通りかかると、役人が軍営の門を閉ざしていたため、通れないということがあった。虞翻はまた腹を立て「閉めるべき時に開けて、開けておくべき時に門を閉ざしている。何を考えているんだ?(要約)」と再び罵倒した。糜芳はこれに恥じ入り、門を開けさせた。
『三国志演義』では、長坂の戦いで劉備の一族を捜索していた趙雲を見掛けると、敵の曹操軍の方へ向かったのを投降しに行ったと早合点し劉備に讒言している。
劉備が関羽の敵討ちで呉討伐(夷陵の戦い)を開始した際、自身も傅士仁とともに従軍していたが、陣内の見回り中、自分の部下達が自分と傅士仁を殺して蜀に戻ろうと画策していること知って驚愕し、急いで傅士仁に相談。劉備の親戚であるから処刑されないと考え、先にこちらの指揮官の首を持って投降しようと目論見、傅士仁と共に指揮官の馬忠(関羽を捕らえた仇敵の一人)を殺し、その首を手土産にして蜀軍に戻る。しかし、関羽を裏切ったことへの劉備の怒りは収まらず、劉備自らの手で傅士仁と共に斬り殺されている(吉川英治版では、関羽の次男・関興に斬り殺される)。