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三原脩の編集履歴

2023-10-11 19:50:07 バージョン

三原脩

みはらおさむ

香川県仲多度郡神野村(現:まんのう町)出身のプロ野球選手(内野手、右投右打)・監督・球団経営者。

概要

(1911年11月21日 - 1984年2月6日)

出生時の本名および読売ジャイアンツ総監督退任までの表記は「三原 修」(読み同じ)。


長女の三原敏子は中西太の妻であり、三原は中西の義父に当たる。


生涯

大地主の末っ子として生まれ、何不自由ない環境下で育った。


香川県立(旧制)丸亀中学校入学直後から野球にのめり込んだが、「玉遊びに興じてないで役人になる勉強をしろ」という父親の意向で同じ県立の(旧制)中学であった高松中学校に転校させられるが、文武両道の校風を盾に野球を続けることを認めさせた。

夏の中等学校野球選手権に一度出場しており、ベスト4まで進んでいる。


早稲田大学に進学し、東京六大学野球でも大活躍したものの、うっかり学生結婚してしまった結果、大学をやめるハメになった。

そして故郷に帰って野球から足を洗ったはずだったのだが、大学時代のチームメイトから説得され、野球を再びやるために大阪府に引っ越した。そしてクラブチームの全大阪でプレーしている。


1934年6月6日、大日本東京野球倶楽部に契約選手第1号として入団する。チームは半年後の同年12月26日に発足するが、その直後の1935年1月に入営のために一度退団する。


日本初のプロ野球である日本職業野球連盟(職業野球、1939年から日本野球連盟)が発足した1936年9月に、後身である東京巨人軍の選手兼助監督として復帰する。


1937年春季では「3番・二塁手」のレギュラーとしてチーム2位の24打点を記録したが、同年に再び応召され、中国戦線へ出征した。その際に南翔で大腿部を貫通する銃創を受ける。


1938年に三度復帰するが、同年現役を引退、東京巨人軍を退団した。


引退後

東京巨人軍を退団した三原は報知新聞社で記者として活動するも、三度目の応召を受けビルマ戦線に従軍した。終戦後は読売新聞社運動部の記者として勤務し、野球評を中心に記述していた。


1947年巨人から監督のオファーがあり総監督に就任。1948年には正式に監督となった。

1949年に巨人を第2次世界大戦終戦後初の優勝(1リーグ制最後の優勝)を果たすも、南海ホークスから別所毅彦を引き抜くわ対戦相手の選手の後頭部をどつくわと相当ひどいことをやらかしてしまった。

そしてシベリアから奇跡の生還を果たし、復帰した水原茂の扱いをめぐってほとんどの選手と対立(その一方で川上哲治は三原を擁護していたらしい)、結果監督の座を追われてしまう。


その後、

西鉄ライオンズ (1951 - 1959)

大洋ホエールズ (1960 - 1967)

近鉄バファローズ (1968 - 1970)

ヤクルトアトムズ (1971 - 1973)

の監督として球団を渡り歩いた。

西鉄と大洋時代にはプロ野球日本一も経験している。


監督を1973年10月25日に勇退し、同年11月17日に「日本ハム」による日拓ホームフライヤーズの買収へ関与した。日本ハムファイターズ(日本ハム球団株式会社)の代表取締役社長兼球団代表に就任した。監督に娘婿となっていた中西を迎え入れた。


結局、チームは1974年・1975年と2年連続の最下位に終わり、三原は中西を首、中西の後任として大沢啓二を招聘した。大沢は三原の期待通りに最下位続きだったチームを優勝争いが出来るまで育て上げ、三原が相談役へ退いた1981年には前身の東映フライヤーズ時代以来19年ぶりとなるリーグ優勝を果たした。


相談役に退いた三原は、1981年に戸籍上も「三原 脩」に改名した。1983年に野球殿堂入りを果たすと、その直後の1984年2月6日に糖尿病の悪化による心不全のため死去した。72歳没。


外部リンク

日本野球機構公式サイト内生涯成績データ

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