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小西行長の編集履歴

2012-07-19 01:06:48 バージョン

小西行長

こにしゆきなが

日本の戦国武将。

史実

弘治元年(1555年)?~慶長5年(1600年)

堺の商人の次男として京都で生まれた。父の影響でキリシタンとなり洗礼名「アウグスティヌス」を持った。

はじめは宇喜多直家に家臣として仕え、次に豊臣秀吉に仕えた。天正9年(1581年)に播磨(兵庫県)の室津を支配し、船奉行として水軍を率いて活躍し、小豆島を与えられた。その一方で、バテレン追放令で改易された高山右近をかくまった。

天正15年(1587年)、九州征伐で肥後(熊本県)の一揆勢を鎮圧し、肥後南半分の宇土を所領とした。領内に多くの宣教師を招いて教会や聖学校を建て、パイプオルガン時計も作った。だが、肥後北半分を所領としていた加藤清正と対立が多くなった。

朝鮮交渉を担ったが、文禄の役で出兵となり、平壌まで攻略できた。京城攻めの時、清正と先陣争いをして行長が先陣を果たした。

軍が遠征してきて一進一退を繰り返し、明との講和交渉に携わった。そこで行長は、明には秀吉が明に降伏して日本国王として冊封を受けると偽り、秀吉には明が降伏したと偽り、画策した。しかし、大阪での明の使者との講和交渉が決裂し、行長は秀吉の怒りを買ったが、前田利家淀殿のとりなしで許された。慶長の役で再び朝鮮出兵をするが、慶長3年(1598年)に秀吉の死去で帰国。

関ヶ原の戦いでは西軍に与し、関ヶ原に参戦するが敗走。降伏し京都で処刑された。


采配のゆくえ

キリシタン大名様

損得勘定を第一に考え、算盤を手放さない。無用な犠牲を払うことはしない。


関連タグ

日本史 戦国時代 戦国武将 関ヶ原の戦い

豊臣秀吉 加藤清正 高山右近

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