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岡田彰布の編集履歴

2024-01-02 19:52:30 バージョン

岡田彰布

おかだあきのぶ

大阪府出身の元プロ野球選手。現・阪神タイガース一軍監督。

経歴

1957年11月25日生まれ、大阪府大阪市出身。

愛称はどんでんアホの坂田こと坂田利夫と共演したおでんのつゆ「どんでん」のCMが由来。

父親は阪神タイガースのタニマチであり、優勝パレードに参加するなど幼少期より阪神と縁の深い人生を送っていた。


早稲田大学時代の1978年には秋季リーグで戦後4人目となる三冠王に輝くなど大学野球の中心選手として活躍。

1979年オフのドラフト会議にて6球団競合の末、相思相愛の阪神へ入団した。

なお、後年のインタビューでは、母親が大学卒業後は大阪に帰ってきてほしいと望んだことから「在阪球団ならどこでも良かった」と語っている。


入団後は強打の二塁手として活躍。

安定して20本程度の本塁打を放つなどクリーンナップの一角を担い、1985年の日本シリーズ制覇の立役者の1人となった。

1989年12月からの3年間は日本プロ野球選手会会長の立場となり、FA制度導入に尽力。

しかし、1992年以降は打撃不振に陥った。


1993年オフに阪神を自由契約になるとオリックス・ブルーウェーブへ移籍。

現役最終年の1995年にリーグ優勝を再び経験した。


引退後はオリックスに残ってコーチに就任。

1998年からは古巣阪神に戻って二軍監督・コーチを歴任したのち2004年には一軍監督に就任。

2005年に優勝を果たしたものの日本一には届かなかった。

いわゆるVやねん!もあり2008年限りで退任。


2010〜12年にはオリックス・バファローズの一軍監督に就任。

その後は解説者として活動したが、2023年シーズンより再び阪神の一軍監督に就任。

就任1年目で2005年以来18年ぶりのリーグ優勝、1985年以来38年ぶりの日本一に導いた。

2リーグ時代になってからは選手・監督双方の立場で日本一を経験した唯一のタイガース関係者である(1リーグ時代は若林忠志が経験あり。また2リーグ時代でもリーグ優勝や日本シリーズ経験は複数名存在する)。


人物

  • 代名詞とも言える「そらそうよ」を筆頭に、主語を抜かして話すことが多い為に「どん語」と呼ばれている。第1次阪神監督時代は特に難解だったようで、赤星憲広などが「翻訳」していたという。
    • 赤星が「通訳」を始めたきっかけは、選手会長時代に岡田と会話を交わすうちに「(岡田)監督はすごいことを考えている。これをチームみんなが理解すれば(もっと)勝てるようになる」と思い至ったからだとか。(そんな赤星でも監督の指示が理解できずに度々怒られた経験があるらしい)
  • いわゆる復刻ユニの発案者でもある。
    • 2005年の阪神監督時代、「交流戦では普段見られないものを見せるべきだ」という考えから1978年から81年に使用されたデザインを基にした「復刻ユニ」で試合に臨むことを提案。所謂「サードユニフォーム」の使用は他球団でも前例があったが、かつてのデザインを復刻させることは初の試みであった。
  • 阪神、オリックスと関西の2球団を渡り歩いたことでも知られているが、(当時阪神が少年野球を運営していなかったため)南海ホークスが運営していた少年野球チームでのプレー経験もある。
  • 読売ジャイアンツで選手・コーチ・監督をしていた原辰徳とは、大学日本代表のチームメイトの間柄。

監督として

とにかく堅実さを重視する傾向にあり、著書では「こと野球に関してはマイナスから考えるのだ。常に最悪の事態を想定してゲームを進める。これが自分の監督論といえる」と語っているほど。

第一次阪神監督時代と同時期に中日を率いていた落合博満自身の動画にて岡田の采配を「手堅かった。走るとこは走る送るとこは送る仕掛けるとこは仕掛ける」と評している。

また天性と言っていい鋭い勝負勘の持ち主で、ここぞという場面を逃さず的確な采配を打つことに定評がある。


第1次阪神監督時代には「ジェフ・ウィリアムス藤川球児久保田智之」からなる勝ちパターン「JFK」を確立。

強力なリリーフ陣で終盤のリードを守り切る戦法は後の球界にも大きな影響を与えた。


しかし、当時の先発陣の完投能力の低さも相まって次第に登板数が増加。

2006年夏に藤川が10試合連続登板、2007年に久保田がシーズン90登板(歴代最多)するなど、リリーフを酷使したと批判されることも少なくなかった。

2008年の歴史的V逸も前年までのJFKの登板過多が一因とされている。


それもあって、2023年から再び阪神の監督を務めることが決まった際はリリーフを酷使するのではないかと囁かれていた。しかし、第1次阪神監督時代の反省や、阪神に限らず、既に多くの球団でリリーフ酷使による選手生命の短命化が問題となっていたこと及びそれを踏まえた時代の変化で過度な連投が避けられるようになったからか、開幕後は3連投した投手を翌日はベンチから外したり、疲労が見えて打たれた投手を登録抹消したりするなど、積極的に休養を与えながら戦うように。

例えば2023年は、シーズン途中から急遽クローザーに回った岩崎優を除いて役割を固定せず、石井、岩貞、島本、加治屋、桐敷、及川、ケラー、ブルワーなど多くの投手を臨機応変に起用していた。


2010年のオリックス監督時代、交流戦優勝も狙えるポジションにいた際、「優勝」という言葉を避け「アレ」と言い換えていた。これは「あくまで平常心で戦うため」という狙いがあったようで、結果的に交流戦優勝を果たすこととなった。

2023年に第2次阪神監督に就任した際も再び「アレ」を使用。チームスローガンとしてもA.R.E.(Aim Respect Empower!)が採用されている。


関連項目

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