概要
ポジションは投手、左投右打。
米国の大学への留学を経て、ロサンゼルス・ドジャースに入団。1999年9月にメジャーデビューを果たした。
2003年に阪神タイガースに入団。
クローザーとして25セーブを挙げ18年ぶりのリーグ優勝に貢献した。
2004年のアテネオリンピックではオーストラリア代表として出場。準決勝の日本戦で日本打線を徹底的に抑え込むなどオーストラリア代表の銀メダル獲得に貢献した。
シーズンでは昨年より数字を落としたものの、オリンピックでの活躍が評価され2年契約で残留。
2005年以降はセットアッパーに転向。藤川球児、久保田智之とともにJFKの一角として活躍した。
特に2007年は、9月17日時点で自責点1、防御率0.15という驚異的な成績を記録。その後は疲労からか安定感を欠く場面も見られたが、最終的には60試合に登板し1勝2敗、防御率0.96という好成績を残した。
しかし、左肩の怪我の影響もあり2009年限りで退団。
現役復帰を目指しリハビリに励んでいたが2011年2月に引退を発表した。
NPBに所属した7年間で通算141ホールド・154ホールドポイントを記録したが、これは浅尾拓也に抜かれるまでプロ野球史上最多記録であった。
引退後は阪神の駐米スカウトに就任し現在に至る。
選手としての特徴
150km/hを超える速球とスライダーを織り交ぜるサウスポー。
サイドスローから放たれるスライダーは非常に変化が大きく、数多の左バッターを苦しめた。