第10代江戸幕府征夷大将軍。
概要
生没年:1737年〜1786年
9代将軍徳川家重の長男。
幼い頃から聡明で知られ、言語不明瞭だった父に変わって、祖父・徳川吉宗の英才教育を受けて育った。1760年に、父の隠居により第10代将軍となる。
治世の前半は側用人の田沼意次と老中の松平武元の助けを借りて政治に励んだ。しかし、1771年に御台所の倫子女王が死んで以降は鬱状態になったらしく、徐々に政へのやる気をなくす。1779年に自身の愛息かつ嫡子・徳川家基が夭折。次いで、武元が死んだことが家治のモチベーションへ止めを刺し、以降は意次を老中に任命し幕政を任せ、自らはひたすら趣味に没頭するようになる。
1786年に死亡、享年50。家基の死去後は直系の後継男子がいなかったため、従弟である一橋治済の四男の徳川家斉が後を継いだ(従って、吉宗の直系男子はこの代で絶える)
彼は祖父の期待を受けて育ったが、正室と嫡子の死去後は家臣に政治を完全に任せ、自身は現実逃避のように趣味に没頭していたため、政治家としての評価は高くない。また、治世の後半は田沼意次に統治をまかせていたため、家治の評価はその時代での田沼の評価に引っ張られる。ただ、祖父の吉宗に倣って質素倹約に努め、特に歴代将軍の悩みの種となっていた大奥の経費を大きく削減したことは、評価されている。
人物
- 家臣を思いやれる性質だったらしく、近習の者が空を見上げてため息をしているのを見て他の者に尋ねると「あの者は貧しく、家が雨漏りをするので親が苦心している事に悩んでいる」と教えられる。すると、家治は「いくらで直せるか?」と尋ね、「100両もあれば直せます」との回答を得る。家治は密かにため息を付きながらも近習を呼び「孝を尽くせ」と100両を渡したという。
- 彼の治世は彼自身の手腕とは言い難いが、後半に政治を任されていた田沼意次が優秀であった事から、江戸幕府の寿命を延伸させた一人である
- 祖父の吉宗からは直々に教育を受けただけあり、期待されていたと同時に非常に可愛がられていた事が知られる。吉宗が9代将軍に家重を選んだ理由の一つには幼少期から家治が聡明だったため、この孫への将軍継承を強く望んだ事も理由にあったとされる。その経緯故に家治は祖父を終生強く尊敬しており、君主としての態度は常に吉宗を模範にしていたという。その意識の仕方は尋常ではなく、食した事のない食べ物が出てくると「これは先々代も食されたのか?」と必ず聞くほどだったという逸話がある。
- 趣味は書・絵画・将棋・鷹狩など。政治とは逆に、趣味人であったため、書画の分野では評価が高く、鷹狩好きは吉宗譲り。
- 殊に将棋では、指し将棋は評価が分かれるものの、作成した詰将棋は二上達也九段(羽生善治元将棋連盟会長の師匠)などが絶賛しているほど。
徳川将軍家屈指の愛妻家将軍
徳川将軍家の歴代正室は3代将軍徳川家光以降、皇族や公家からの輿入れが多く、関係が悪化する事が多かったとされるが、皇族の倫子女王とは非常に仲睦まじいものだったと伝わる。
千代姫、万寿姫の2姫を設けたが、男子を設けられなかった事から田沼意次が側室を薦められている。この時は意次も側室をもつことを条件に渋々側室を選んだが、嫡子となる家基が誕生するとぱったりと側室通いを止めてしまっている。
他の将軍で正室と仲の良さで知られるのは、13代将軍徳川家定と篤姫と14代将軍徳川家茂と和宮の2組が知られる。しかし、家定は篤姫と再婚してから1年少しで死去してしまったため、婚姻期間は短いものとなってしまったこと。家茂と和宮は公武合体という特殊な経緯故に家茂がかなり気を遣っていたという側面もあるため、純粋な仲の良さは家治がトップであろう。
フィクションにおける徳川家治
NHK大河ドラマ
- べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(2025年)
演:眞島秀和