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周瑜の編集履歴

2013-04-14 09:13:59 バージョン

周瑜

しゅうゆ

中国の後漢末期の武将。孫策と孫権に仕える。妻は小喬で、孫策とは義兄弟。三国志を描いた作品では知略と武勇に優れた人物とされると共に、「美周郎」の異名で呼ばれる程の美男子であった。

概要

175年 - 210年。後漢末期の武将。字は公瑾。

周栄の玄孫、周興の曾孫、周異の子である。周循周胤の父であり、妻は小喬。揚州廬江郡の人で、若くして立派な風采を整えていたので周郎もしくは美周朗と呼ばれていた。また音楽に精通しており、酔っぱらって居たときでもその間違いを聞き逃さなかったと言われている。


赤壁の戦い

西暦208年、中原を制覇した曹操軍80万(実質30万)の大軍は南下を開始。呉の重臣たちは孫権に投降を進言するが、周瑜と一部の武将たちは断固決戦を主張し、呉に同盟を結びにやってきた諸葛亮とともに孫権を説得する。戦いが始まると周瑜は、わずか3万の軍勢を率いて火攻めをもって、赤壁で曹操軍の船団を焼きつくし壊滅させた。この戦いがなければ、曹操は中国を統一できていたかもしれないといわれている。


荊州争奪と最期

戦後、孫権は江陵に目をつける。曹仁の守りは堅かったが、周瑜は甘寧を夷陵に進撃させ、曹仁と徐晃の部隊を分断した。曹仁が夷陵に軍を送り包囲すると、呂蒙の計略を採用し、凌統だけを守備に残して軍のほとんどを甘寧の救援に引き連れ、曹仁の包囲を打ち破り甘寧を救援した。この時、曹仁は万余人の兵を失った(「甘寧伝」)。


そのまま長江の北岸に陣を据えて江陵攻撃を続行したが、この時、正面決戦の末に、周瑜は流れ矢を受けて重傷を負った。周瑜は重傷のまま戦に臨み、曹仁の攻撃を退け、ついに江陵から曹仁を撤退させた。周瑜は偏将軍に任命され、南郡太守の職務にあたった。さらに奉邑として下雋・漢昌・劉陽・州陵を与えられ、江陵に軍を駐屯させた。


劉備は左将軍・荊州として、江陵の近隣の公安に幕府を置いていた。劉備が孫権と会談するため、呉の京城に赴いていたとき、周瑜は孫権に上疏し、劉備を篭絡して劉備と関羽張飛を分断し、両将を自ら率いると献策したが、孫権は今は曹操に対抗するため、一人でも多くの英雄が必要な時期と考え、また劉備を篭絡させることはできないだろうと判断し、周瑜の提案は却下された。


周瑜は、曹操が赤壁での疲弊から軍事行動を起こせないと判断した。その間に劉璋の支配が動揺していた益州を占領し、益州は孫瑜に任せた上で、関中馬超と同盟を結び、自らは襄陽から曹操を攻めるという計画を立て、孫権の元に出向き、その同意を取り付けた。しかし、その遠征の準備中に巴丘にて急逝した。36歳であった。


周瑜の死は孫権を大いに嘆かせた。孫権は建業に戻ってくる周瑜の柩を蕪湖まで出迎え、葬儀の費用の一切を負担した。また、後に命令を出し、仮に周瑜と程普が勝手に奴隷を保有していたとしても、一切問題にしてはならないと言ったという。

彼の死により遠征計画も白紙に戻された。周瑜の後は魯粛が継ぎ、以降は荊州に構える劉備との共存方針が採られることになった。


人物

  • 知略・武略に優れており、その才能は曹操や劉備からも恐れられるほどであった。実際に曹操は蒋幹を使者として周瑜の引き抜きを図り、劉備は孫権に虚言を述べて、孫権と周瑜を離間させようとしたが、いずれも失敗に終わっている。
  • 寛大な性格で人心を掴むことが得意だった。しかし宿将の程普とだけは折り合いが悪く、程普は若輩の周瑜を度々侮辱していたのだが、周瑜はあくまで膝を屈して謙り続けたので、その謙譲さに程普も遂に感服し、周瑜を尊重するようになった。
  • 陳寿は「曹公(=曹操)は丞相という地位を利し、天子を手元に置き、その威をかりて群雄達の掃討につとめていたが、荊州の城を落とすや、その勢いを借りて東夏(=呉)の地に鉾先を向けてきた。このときにあたり、(呉の朝廷では)意見を申し述べるものたちは、国の前途を危ぶみ、皆確信を失っていた。周瑜と魯粛とは、そうした中で他人の意見に惑わされる事無く明確な見通しを立て、人々に抜きん出た存在を示したというのは、真に非凡な才能によるのである」と評している。

演義、その他

小説『三国志演義』でも、孫策の挙兵にかけつけ、江東制覇に協力し、孫策の死後も孫権に仕え、張昭と並ぶ重臣となった。赤壁の戦いでは史実と同様、主戦派の重鎮として登場するが、劉備の使者として呉に滞在していた諸葛亮にその出会いのときから翻弄され続ける損な役回りを負わされている。自らの策を全て見透かす諸葛亮を危険視し暗殺を企むも果たせず、終始ライバル視しながらも遂に敵わず病に倒れる。臨終の際にも諸葛亮からの挑発的な書状を読み、「天はこの世に周瑜を生みながら、なぜ諸葛亮をも生んだのだ!(既生瑜、何生亮)」と血を吐いて憤死するという最期となっている。


但し軍事の才は『演義』においても優れており、赤壁の戦いを始めとして、多くの戦いで戦功を立てるのは史実と同様である。一国を担う将器・常人に勝る才幹を持つ人物として描かれているものの、それを更に圧倒する鬼謀を備えた諸葛亮の、引き立て役にされてしまったというイメージが強い(諸葛亮と周瑜の対比描写について、魯迅などは「物語にしても、実在の人物の功を歪曲し過ぎており、やり過ぎである」などと批判している)。


京劇では、「美周郎」というあだ名の通り古来から二枚目が演じる役とされており、眉目秀麗な英雄としてのイメージが定着している。


関連作品

真・三國無双シリーズ

CV吉水孝宏

初代から参戦している最古参。



関連タグ

三国志 赤壁の戦い

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