西園寺は嘉永2年10月23日に徳大寺家に生まれ、後に西園寺家の養子となった。
明治元年正月3日早朝、京都御所では維新の功臣が一室に集い、そこで逃げた徳川氏をどうするかと協議していたが、はるか末座にいた少年時の西園寺の一言で徳川氏追討の廟議が決し、これが動機となって鳥羽伏見の戦いは官軍の勝利となった。
その年の夏には会津戦争に追討参謀として参加している。
明治維新後、開国進取の国是に従って、西園寺はフランスに留学し、フランスの革命の思想を受け継いで帰国した。
維新後の政治家で西洋に行き、西洋の学問をして、思想の間違った方に行った人はたくさんあるが、西園寺もやはりそうであった。西園寺も漢学などはしたに違いないが、しかしやっていることはどうやら文学方面であり、経書のことはやっていないのではないだろうか。
明治13年に帰国し、明治18年には特命全権公使となってフランスに駐箚。それから賞勲局総裁、貴族院 副議長、文部大臣、枢密院議長等に歴任し、政友会総裁にもなった。内閣総理大臣に二度(明治39年・44年)、臨時総理大臣にも一度拝命。
満洲事変(昭和6年)以前の日本の外交は、外国のご機嫌取りであった。外国から無理を言ってきてもこれに逆らわないというもので、西園寺がそういう考えのようであった。そのため第一次世界大戦の時、日英同盟の義理で日本は参戦したが、参戦はしても後で青島を返すことになり、また後には日英同盟を廃し、軍備を縮小し、九国会議があってシナ大陸に手を出せないようにするという、このような外交に堕してしまった。
国際連盟にしてもそうで、国際平和などと言うが、実際にはドイツを生殺しにして第二次世界大戦を起こす原因となっている。それまでの平和は謀略戦であり、列国は虎視眈々として武力を強化し侵入しようとしていた。
国際関係を円満にし、平和でゆきたいという考えは良いのだが、政党および西園寺を中心とした重臣は、事なかれ主義であった。これが事の起こる原因であった。
対満洲・中国外交政策が、その後の日支事変のようになったのは当然良いことではなく、このようになったのは、西園寺が政権を持っていた時の外交の失敗であると考えられる。外国追従の外交姿勢によって、平和に事を処理していくくらいに考えていたのがわかっているから、張学良などにも馬鹿にされた。
また陸軍の有力者も政党に迎合し、西園寺に取り入って軍備を縮小したため、その反動として政党と西園寺一派がその後凋落したのはよかったかもしれない。しかし、これに代わったのが思慮の浅薄な者であったため、もつれてその後の事態となったのであった。
晩年は積極的に政治に口出しはせず、元老として内閣奏請の役目を負うことも、二・二六事件直後に広田弘毅内閣を推薦したのを最後とした。その後は内大臣が勅許を得て西園寺の意向をきいたが、それは内大臣の参考になるだけで、西園寺の意見がただちに、御下問に対する奉答になるわけではなかった。
昭和15年11月14日、西園寺は92歳の寿命を終わった。