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藤原秀衡の編集履歴

2013-08-20 02:38:00 バージョン

藤原秀衡

ふじわらのひでひら

平安末期の平泉にいた奥州藤原氏の三代目。

生涯

保安3年(1122年)?~文治3年(1187年)

平泉を中心に奥州東北)一帯を治めた奥州藤原氏。その二代目藤原基衡の跡を保元2年(1157年)に継いで三代目当主となった。平安京源平による保元の乱平治の乱が起こっても、中央と距離を置いて独自勢力を維持。

秀衡は京都に次ぐ人口の街を整備し、寺院を建立。奥州産出の黄金や大陸と交易し、莫大な財力を得た。嘉応2年(1170年)には平清盛の推薦で鎮守府将軍に、養和元年(1181年)には陸奥守に就任し、中央も認める立場を得て出羽・陸奥を協力に支配し、奥州の最盛期を築き、奥州を独立国家状態に成長させた。

一方、鞍馬寺を抜け出た敗将源義朝の遺児源義経が秀衡を頼って訪問し、彼を匿って養育した。治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると義経も兄・頼朝の元へ向かおうとし、反対していた秀衡も義経に家来を付き添わせ見送った。源平争乱となり両勢力から協力を求められたが、動かず事態を静観した。

平家滅亡後、秀衡は頼朝から京都への品物を鎌倉を仲介して送るよう求められ、両者は対立状態になり、頼朝と対立して逃亡していた義経を再び匿った。鎌倉との衝突も覚悟していたが、病に倒れ家督を次男の藤原泰衡に譲り、長男の国衡や義経と協力するよう託して亡くなった。

しかし、泰衡は義経を襲撃し、さらに鎌倉勢の侵攻を受け奥州平泉は滅びた。


冷静沈着にして豪胆な人物と言われ、また朝廷源氏・平家と関係を結んで、各勢力と立ち回るなど、外交や政治に卓越した姿を見せる。経済力で強大な支配力を持っていたが、仏教に深く帰依し、平等院に匹敵する無量光院を建立し、奥州を平和な理想郷を築こうとしていた。

現在、秀衡の遺体は祖父の清衡、父の基衡、息子泰衡のとともに中尊寺金色堂ミイラとなって安置されている。調査によって血液型A型で身長は167cmと判明。


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平安時代 平泉 東北 藤原氏 源平 源義経 源頼朝 藤原泰衡

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