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第二次世界大戦の編集履歴

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第二次世界大戦

だいにじせかいたいせん

20世紀前半に勃発した世界大戦。

昭和14年(1939年)9月1日から昭和20年(1945年)9月2日にかけてなどの枢軸国と、などの連合国によって行われた戦争で、人類史上二度目の世界大戦。WW2とも呼ばれる。

主にヨーロッパアジアアフリカ太平洋の地域に分かれる。


概要

前夜

1929年(昭和4年)、ニューヨーク・ウォール街から始まった株価大暴落をきっかけに、各国に大不況・世界恐慌が広まった。この不況への対処は各国様々で、英国は自国の植民地を囲い込んで自国製品を売り込み、米国はニューディール政策を採り、日本は満州中国に進出して自国の市場にしようとした。フランスは左傾し、親ソ的な人民戦線内閣が成立。もっとも悲惨だったのはドイツで、一時的に立ち直りかけていた経済は一気に破綻、失業率は40%以上に達し銀行や有力企業が次々倒産、ドイツ人の間には絶望と怒りが広がった。なお、共産主義のソ連では影響がほとんどなかった。


1933年(昭和8年)、ドイツでナチスを率いるヒトラーが政権を握り、第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制に反発し、先立って政権を獲得していたイタリアのムッソリーニらとともにファシズムを台頭させた。


日本では信用を失った政府に代わって軍部が台頭。満州に駐屯する関東軍は昭和6年(1931年)に満州事変を起こし、日本政府にこれを止める力はもはやなく、翌年には満州国を建国。日本は米中と対立し、国連を脱退し国際的に孤立。日独伊は枢軸同盟を交わした。


勃発

昭和12年(1937年)の盧溝橋事件をきっかけに日中は戦争状態になり泥沼化。ドイツは領土獲得を掲げて、独仏国境地域への進駐、オーストリア併合、チェコスロバキア一部の割譲など周辺地域に勢力拡大を続けた。そして、1939年(昭和14年)にポーランドへ侵攻し、英仏の対独宣戦布告で開戦。1940年(昭和15年)にはフランスが侵攻を受けパリも占領され、オランダベルギーなどベネルクス三国も侵攻された。


昭和15年(1940年)本国占領後の仏領インドシナ日本軍が進駐し、日本は東南アジアに勢力拡大と対中支援ルート遮断を図ったが、米英中蘭の対日経済制裁「ABCD包囲網」で対立し、昭和16年(1941年)に真珠湾攻撃で日米開戦。この前後にドイツは米ソとも開戦。戦争が世界規模に拡大し、世界大戦になった。


経過

ドイツは欧州の大部分を制圧し優勢だったが、1940年から続く英国上空で戦われたバトル・オブ・ブリテンを打開できず、ついにイギリスを屈服させることはできなかった。1942年(昭和17年)の独ソ戦でのスターリングラードの戦いや、1944年(昭和19年)の米英仏のノルマンディー上陸作戦など、米英ソの猛攻で戦局はドイツが敗退。


大東亜共栄圏を掲げ初戦は優勢だった日本も、昭和17年(1942年)のミッドウェー海戦を機にアメリカ軍の圧倒的な物量の差で戦局は米軍側が優位となり、アッツ・ガダルカナル・サイパン硫黄島などで、無謀な玉砕戦や特攻を展開するに至った。


終戦

1945年(昭和20年)2月、米英ソによる戦後処理を決めるヤルタ会談が開かれ、5月にヒトラーの自殺でドイツは降伏。


日本本土は米軍の空襲が続き、4月に沖縄を侵攻され、米英ソのポツダム会談の後に原爆を二発も落とされ、ソ連も条約を破棄して宣戦布告し、昭和天皇の御聖断に基き昭和20年8月15日に終戦。9月2日の降伏文書調印で日本の敗戦となり、連合国の勝利となった。


戦後

連合国をもとに国際連合が設立。日本はGHQによる占領統治が昭和27年(1952年)まで続いた。インドベトナムインドネシアなどアジア諸国が相次いで独立し、それまでの帝国主義と植民地の時代は終焉。東欧中国が共産化。ドイツは東西に、朝鮮は南北に分断され、1950年(昭和25年)に朝鮮戦争が勃発。中東ではイスラエル建国によりパレスチナ問題が始まる。ソ連を始め英仏中も核兵器を保有。ヤルタ会談を機に米ソを中心にした冷戦の時代が始まった。


意義

目的

第二次世界大戦を起こしたのは枢軸軍であるが、枢軸各国によって戦争目的には共通点と違いがある。


ドイツは生存権を東方に拡大し、中東欧にドイツ人主導の千年帝国を築くことを目的とした。リトアニア、ポーランド、チェコの領土を併合し、スラヴ人を奴隷化し跡地にドイツ人を中心とするアーリア人を入植させる。ウクライナやスロバキアを従属化に置いて食糧を略奪し、飢餓による人口削減を計画的に行った。


日本は「ABCD包囲網」により、中国の戦争を続けるのに必要な石油・ゴムなどの戦略物資が不足していた。東南アジアの英米蘭の植民地を併合し、あるいは勢力下に置く事で、資源獲得を狙うことが主な目的であった。また多分に後付けの理屈ではあるが「大東亜共栄圏」を旗印に「欧米の支配からのアジア解放」を表向きの開戦理由とした。


イタリアの参戦は多分に日和見的なもので、国内の経済の行き詰まりを打開するためと、民衆の人気取りのため無謀な対外進出を狙ったものであった。第二次大戦前に占領したエチオピア、アルバニアに加え、北アフリカのイギリスとその衛星国及び植民地を占領してその後釜に座ろうとした。


そんな日独伊はソ連の共産主義や米英を共通の敵として共闘しようと三国同盟を交わし、これによって対立する敵勢国は戦争を起こさないと踏んでいた。


イギリスは日独による勢力拡大によって脅かされた自国の領土や勢力圏を守るために戦い、これまでの経済や国際秩序を成り立たせた植民地体制を維持しようとした。


ソ連はスターリンによる粛清の影響で政治も経済も疲弊が続いており、独軍侵攻には祖国防衛の戦い「大祖国戦争」としていた。大戦末期には自国領土と社会主義圏拡大を図って再び膨張政策に転じ、各国のパルチザンに浸透を図った。


米国は当初中立を保ち、英仏ソ中の支援に徹していたが、日本の真珠湾攻撃を受けて参戦。日本の大東亜共栄圏構想とドイツの東方生存圏構想に対抗するため、この戦争は領土拡大を狙ったものではないとする「大西洋憲章」をイギリスと締結した。


中国では蒋介石の国民党が対日抵抗戦争のかたわら、毛沢東の共産党の討伐を続け、一時は中国共産党を殲滅寸前まで追い込んでいたが、第二次大戦開戦に先立つ1937年、蒋介石が拉致監禁される西安事件が起り、日本軍という共通の敵に対して防衛のために共闘に転じた。


親日的なタイ、ファシズム独裁のスペイン、永世武装中立のスイススウェーデンなどは中立を保った。イランは親独的政治で脱植民地化を図ったが英ソの侵略を受けた。南米各国ではファシズム政治が多かったが、米国の圧力で連合側に着いた。


軍事面

第一次大戦において科学技術の発達と向上によって兵器が飛躍的に発展したが、この大戦においても大量殺戮が可能な兵器や武器が増えた。


まず航空戦力の威力をそれまで以上に発揮した。しかも、それを先に証明したのが、スペイン内戦に介入したドイツと、中国戦線や真珠湾で展開した日本など枢軸国側であった。日本は航空戦力を最も重視した海軍であったが、緒戦で多くの空母と機体、搭乗員を失ったにもかかわらず、生産力の脆弱さから航空兵力の再生産ができず、戦争が長引くほど地力に優れる米海軍との格差が広がっていった。


それまで海戦といえば戦艦の大砲で打ち合う艦隊戦法だったが、航空機の発達で空母の建造が急務となった。「大鑑巨砲主義」と呼ばれた戦艦の時代は、日本海軍による英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」、米軍による戦艦大和の撃沈により終わりを迎え、戦艦同士による海戦も日米海軍の第三次ソロモン海戦を最後に行われなくなった。


各国で爆撃機による敵国への無差別空襲が行われるようになり、独軍はゲルニカロンドンに、日本軍は重慶に、英軍はベルリンハンブルクに、米軍は東京大阪に爆撃。枢軸軍以上に連合軍による民間人を巻き込んだ大量殺戮が展開された。そして、ロケット開発から始まったミサイル技術が出現し、末期には原子力より生み出された究極の兵器「原子爆弾」が登場し、広島長崎を軍民問わず一瞬にして破壊。それまでの戦法を決定的に変えるものとなった。


戦後

上述の通り、それまでの帝国主義と植民地の時代の終焉が決定的になった。これにより植民地によって成り立った英仏蘭は戦勝国でありながら経済的には困窮。アジアをはじめ、アフリカ南米などの国々も独立し、国際的発言権を強めた。


そして欧州諸国の後退の隙を突くように米ソが影響力拡大を図り、親米国とソ連の衛星国の2大陣営による冷戦と言う結果をもたらした。


敗戦国となった日本と西ドイツは連合国からの独立回復後も米国の勢力圏のもとに置かれ続けたが、米国の庇護のもと、戦前の巨額な軍事費と植民地という二重の負担から解放されたことで、経済大国へと成長していった。


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