概要
戸隠の由来は、「天照大御神が、高天ヶ原の天の岩戸に隠れたとき、天手力雄命が、その岩戸をここまで投げ飛ばし、世に光を取り戻した。」という伝説からきている。
また戸隠山は、古くから修験道場や戸隠流忍者の里としても有名である。
古くから修験の地として栄え、戸隠山から高妻山に至る戸隠曼陀羅は修験の地とされてきた。戸隠流忍術の開祖である仁科大助は、元々はこの地の修験者であったと言われている。
戸隠流忍術
養和元年(1181)平家妥当の兵を興した信濃源氏木曽義仲を平定するため、越後守城太郎資長の率いる平家軍は数万と言われる兵力を以て、信濃に向い打って出た。これを迎撃せんとする木曽勢も直ちに依田城を後に北信濃裾花川添いに布陣したが、その際、義仲は戸隠山中を源流とするこの川の上流の岩窟に陣取って全軍の指揮をとったと言われている、後生この岩窟は木曽殿アブキと呼ばれるようになった。
義仲の家臣としてこの戦列に加わった仁科大助は古くからこの地に在って荒行の末、飛鳥術、銛磐投術等信濃忍法とも言うべき戸隠修験道、飯綱修験道、独特の技を身につけたと言われる。
寿永三年(1184)宇治粟津の戦いで義仲闘死の後、大助は伊賀に逃れ、戸隠で修行した技に伊賀流忍術をとり入れ、ここに戸隠流忍術を完成した。
(戸隠忍者からくり屋敷・忍法資料館より)
戸隠流忍術は、敵にあっても先制攻撃をせず、まずは相手の戦力を奪うという守備の武術が特徴である。武器を持たずとも敵を倒すということが極意である。