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鳥越城の戦い

とりごえじょうのたたかい

1580年6月から1582年3月までに起こった佐久間盛政軍が山内衆・加賀一向一揆残党を殲滅した戦。
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鳥越城の戦い直前編集

鳥越城周辺の一揆勢は山内衆と呼ばれ、本願寺に最も忠実で、鉄砲の技術も習得していた強力な軍事集団であった。山内衆を束ねていたのが、この周辺の領主的存在であった鈴木出羽守である。本願寺顕如はこの鈴木出羽守宛ての書状に、「山内の儀は、とりわけ毎度粉骨有難く候。弥(いよいよ)しかるべき様たのみ入候ほかに他無く候」と述べ、その力を一際、頼りにしていた。

山内衆は、越前が織田家の支配地となって加賀と大阪本願寺との連絡が断たれた際には白山を越え、飛騨高山経由の道を開いて情報伝達の中枢を担った。顕如が信長と和睦し大阪を退去してもその子、教如が徹底抗戦を呼びかけるとこれに応じて、戦闘を継続したのである。佐久間盛政は尾山御坊を落した後、今度は鳥越城の一揆勢討伐に向かった。これに対し、一揆勢は鳥越城を主城として、大日川を挟んだ対岸にある、二曲城(ふとげじょう)と連携して、迎え撃つ構えを取った。一揆勢は数的には織田軍より劣勢であったが、地の利と大量の鉄砲という強みがあった。

天正八年(1580)閏三月、顕如は信長に屈服して、

石山合戦は信長の勝利で終結した。鈴木出羽守らは織田勢の来襲に備えて尾添、瀬戸の砦をはじめとする要所の砦を固めた。一方、加賀平定を進める佐久間盛政は四月に尾山御坊を落とし加賀一揆最後の地となった白山麓山内衆の攻略に取り掛かった。しかし山内衆の抵抗は手強かった。


第一次鳥越城の戦い編集

天正8年(1580年)6月23日、盛政軍と鈴木出羽守率いる一揆勢は手取川と大日川の合流点、河合の地で激突した。盛政軍は鉄砲を縦横に撃ちまくる一揆勢に苦戦し、200人余の戦死者を出して押し返された。6月28日、盛政は今度こそ一揆勢を打ち破らんと再び軍を進め、先の戦いよりやや下流の狭い隘路で、両軍は激突した。しかし、盛政軍はまたもや敗れ、一揆勢の追撃を受けて370人余の戦死者を出す大打撃を被ってしまう。鈴木出羽守率いる一揆勢は、尋常ならざる相手であった。これまで常勝を重ねて来た盛政は二度の敗北を味わって、屈辱で身悶えしたであろう。そこで、盛政は勝家と相談した上で謀略を用いる事とし、顕如と信長の和睦に事よせて、鈴木出羽守らに本領安堵の条件で講和を呼びかけた。

同年11月、この講和を受けて、鈴木出羽守と4人の息子、若林長門などが松任城に出向いて来た。ここで勝家と盛政は彼らを悉く謀殺し、討ち取った一揆勢の首領達19人の首が安土に届けられるその様子が「信長公記」に記されている。「十一月十七日に加賀一揆歴々の者十九人の首が安土へ届けられた」とあり、その中に鈴木出羽守とその子ら右京進・次郎右衛門・太郎といった名が記されており信長は大いに満足した。その上で盛政は鳥越城に攻めかかった。首領達を失い、統率力が弱まった一揆勢にこの攻撃を凌ぐことは出来なかった。とうとう鳥越城は落城したのである。主を失った鳥越城と二曲城には柴田軍が進駐、柴田家臣の吉原次郎兵衛が鳥越城の城将となり、二曲城と合わせて兵三百が駐屯した。

なお盛政は、この戦功により加賀国二群を信長から拝領する。


第二次鳥越城の戦い編集

天正9年(1581)2月28日、信長は支配地各地から諸将を京都に呼び集めると、正親町天皇を始めとする大観衆の前で、大馬揃えを催す。この馬揃えは大成功となり、信長は自らの威信を内外に大いに広めたが、その反面、一時的に領内の防備が手薄になってしまう弊害もあった。北陸でも柴田勝家・佐々成政・前田利家らが馬揃えの為に上洛すると、越後の上杉景勝は越前、越中、加賀の一向一揆と連携して動き始めた。3月6日、成政不在の越中を突くべく、上杉方の河田長親が松倉城から出撃し、近隣を焼き払いつつ、3月9日には小出城を包囲した。これに呼応して白山山内衆も再び立ち上がり、鳥越城の奪還に向かう。

この時、柴田軍の中で盛政だけは馬揃えに参加せず金沢城にあった。そこへ、「鳥越と二曲の二城危し」の急報が届けられると盛政は直ちに救援に向かった。しかし、駆けつける頃には一揆勢は2人の将と300人余の兵を悉く討ち果たして、城を奪還していた。盛政はそうと知ると猛り狂い、一気呵成に一揆勢を攻め立てた。

盛政は一揆勢を追い散らし、たちまちの内に2城を奪還した。その時の盛政の活躍は、『信長公記』にも記載されており「比類なき功名である」と絶賛されている。そして、盛政の武勇に敵味方とも恐れと畏敬の念を込めて、鬼玄蕃と呼ぶようになった。


第三次鳥越城の戦い編集

天正10年(1582年)3月、織田軍が武田領に大挙、侵攻すると、白山麓七ヶ村(現代の鳥越村の東)の門徒達が武田家を側面援助すべく蜂起して、吉岡、佐良に要害を構えて立て篭もった。勝算のないことは明らかであったが、仏敵信長の威に屈するよりは殉教の戦いで斃れることの方を選んだのであろうか。戦いは鳥越城をめぐる攻防となり、まさに加賀一揆最後の戦場となった。盛政はすぐさま鎮圧に向かい、吉岡、佐良の要害を攻め落とすと、一揆勢は佐久間勢によって鎮圧された。

本能寺の変が起きる3ヶ月前まで、柴田勝家を長とする北陸の織田軍は、一向一揆を相手に悪戦苦闘していた。特に、何度でも不屈の闘志で立ち向かってきた鳥越城周辺の門徒達と佐久間盛政との戦いは苛烈極まりないものであった。佐久間盛政と加賀一向一揆との間では、この鳥越城の様な戦いを加賀全土で繰り広げられていた。だが、加賀一向一揆は、佐久間盛政との戦いで完全に滅亡した訳ではない。顕如の呼びかけに応じて矛を収めた一向一揆は、その後も加賀で勢力を維持し続けていた事には留意する必要がある。


戦後編集

鳥越城の手取川上流から尾添川にかけて散在する吉野、佐良、瀬波、市原、木滑、中宮、尾添の山内七ヵ村は徹底的に破壊され、門徒三百余人が捕えられて手取川の河原で磔にされた。この時の容赦のない盛政軍の摘発によって鳥越城周辺では、子ころし谷・かくれ谷・首切り谷・自害谷などの地名が伝わっている。

加賀一向一揆の最後は残雪を血に染めた凄惨なかたちで幕を閉じた。破壊された村々からは人影が消え、三年間は荒地と化したと伝えられている。

現在、この鳥越城は史跡として復元保存されている。その鳥越城の遺跡を見ると盛政軍と一揆勢との熾烈な戦いの一端を窺い知る事が出来る。鳥越城は、一揆方が築いた石垣の上に織田方が石垣を築くなどしているので両者の遺構は複雑に絡み合っていた。タタラ跡があったことから、城内で鉄砲を製造していた事が確認されている。


出典編集

信長公記

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