結城秀康
ゆうきひでやす
生涯
1574年3月1日~1607年6月2日。
於万は家康の正室・築山殿の奥女中であったが、家康と関係を持つようになり子(秀康)を身籠る。
築山殿の嫉妬を危惧した家康は、於万を浜松城下の有富見村へ送り、秀康はそこで誕生した。
幼名は於義丸(おぎまる)。名前の由来はナマズから来ている。
家康は於義丸のことを嫌っていたらしく、実子の誕生後もなかなか会おうとはしなかった。
理由は諸説あり、容姿が醜かった、双子だった(当時、双子の出生は「畜生腹」と呼ばれ忌み嫌われた)、
または家康自身は嫌っておらず、妻の嫉妬を恐れたためという説もある。
この事を不憫に思った長男(異母兄)である松平信康が家康を説得をし、3歳で初めて面談を果たした。
父子の関係を取り持ってくれた兄であったが、天正7年(1579年)、信康は武田勝頼との内通の疑いがかけられ切腹させられる。同時にその母である築山殿も家臣により殺害された。
本来ならば、序列的に於義丸が徳川の後継者になるはずであったが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、父・家康が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)との和議の条件として、於義丸を養子(という名の人質)に出す。元服した於義丸は、秀吉と家康から一字ずつもらい「羽柴秀康」と名乗った。
その後九州征伐で初陣を果たし、その武功で豊臣姓を下賜された。
しばらくすると、豊臣秀吉の後継者が実子に指名されると、他の養子と共にほかの家に養子に出される。
(まったく結城家からしたらどこの馬の骨かもわからない秀康を押し付けられていい迷惑だったのかも知れない)
結城秀朝と名乗った。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いが起きた。
父の家康が会津征伐に乗り出したが、上杉景勝に呼応した石田三成が挙兵した際、小山評定にて、景勝の牽制の役割で留守役を与えた。
戦後、秀康は一番の加増を受け、越前の67万石となった。
死因は梅毒である。