概要
中国の『三国志』魏書「烏丸・鮮卑・東夷伝」倭人条(『魏志』倭人伝)によれば、「倭国」(外国による古代日本の蔑称)では「卑弥呼」とよばれる女王が、「鬼道」を司るという宗教的権威で国内を治めていたとされる。
「倭国」内でも最有力の都市国家を「邪馬臺國」(現在の表記では「邪馬台国」)と称する。
「邪馬台国」は現在の日本では「やまたいこく」とよまれるのが一般的だが、本来「やまとこく」と訓読すべきものとみられる(後述)。
対立国「狗奴国」との戦が続く中で「卑弥呼」が亡くなり、男の王が続くも国は乱れ、しかたがないので新たな女王「台与」(壱与)が即いたという。
史実性
ただしこれを歴史として見た時、あくまで外国の文献の記事に依存しており、他にクロス・チェックできる史料もないため、実態とのズレがどの程度あるのか不明である。
「倭国」の条は、中国の景初年間に公孫淵を滅ぼした司馬懿の功績を宣揚するために執筆された。こうした目的に基づいた中国史の一部である以上、東夷伝には理念に基づく記述の歪みが多く含まれている。
ヤマト国かヤマイ国か
『三国志』の版本の中で最良とされてきた百衲本をはじめ、多くの本には「邪馬壹國」(現在の略字体表記では邪馬壱国)と表記されているが、この表記は誤りで「邪馬臺國」(邪馬台国)が正しいとするのが一般的な説である。現在使われる略字体では分かりにくいが、台は臺、壱は壹で、まったく異なる文字である。
これについて、廬弼による『三国志集解』は、次のように述べている。
『後漢書』は「邪馬壹国」を「邪馬臺国」につくる。
「邪馬臺」は、日本語の「太和」という二字の音訳である。
ここで「壹」につくることは、誤りである。
(黄遵憲の)『日本国志』に、「神武天皇は太和の橿原で即位した」とある。
としており、『後漢書』を根拠に「壹」を「臺」の誤りとする穏当な解釈をしている。
位置
邪馬台国研究で最大の論点は「邪馬台国がどこか?」である。この邪馬台国の位置に関する論争は江戸時代から続いており、有力候補は近畿説と九州説の二つ。九州説のバリエーションとして、九州から近畿に東遷したとする説もある。
東遷説の場合、日本神話における神武天皇の「神武東遷」から発想がきているものが多い。また、国そのものが移動した説と、邪馬台国から分裂した勢力が近畿で大和王権になったとする説がある。
他にも四国説・中国地方説・千葉県説・新潟県説・沖縄県説など。果ては朝鮮半島説・南洋説など日本国外にあったとする推測もある。
しかしそもそも、『三国志』を執筆した陳寿は、『礼記』や『漢書』に依拠しながら、東南の大国としての「倭国」の習俗を理念的に創りあげた。さらに東夷伝は、その世界観の根底に、『尚書』を置いている。邪馬台国論争の最大の争点とされる里程・距離・位置は、こうした理念と世界観(天下の概念)をもとに記されている。
倭人伝に記される「邪馬台国」、は九州でも大和でもなく、会稽郡東冶県の東方海上に存在する。現実の「邪馬台国」の位置とは関係なく、そこになければならない当時の国際関係があり、また三国時代の世界観が擦り込まれたのであった。