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島原の乱の編集履歴

2015-03-01 00:03:32 バージョン

島原の乱

しまばらのらん

江戸時代前期に起こった大規模な農民一揆。

概要

天草・島原の一揆」「天草・島原の乱」とも呼ばれている。

戦国時代が終わり江戸幕府による天下泰平の江戸時代が始まった。戦国時代からキリスト教や海外貿易は続いていたが、豊臣秀吉による統一後にキリスト教の布教を名目にスペインポルトガルから宣教師として送り込まれていた尖兵(スパイ)の存在に気づいた秀吉によって、キリスト教の布教は禁じられる。

更に三代将軍・徳川秀忠の頃からは、幕府はいわゆる鎖国体制を強め、キリスト教を危険思想として禁教令が出された。


九州ではキリシタンがとくに多く、取り締まりも拷問も厳しかった。そんな中で肥前唐津藩主の寺沢堅高と島原藩主の松倉勝家は激しいキリシタン弾圧をしていたが、さらに農民への度重なる年貢や税金を取立て、未納者には過酷な拷問や処刑がなされていた。また各地でなされた改易や移封で浪人も増加しており、百姓たちと共に多くの浪人も藩や幕府への不満を強めていた。


その中で、旧小西家家臣の益田家の青年・天草四郎益田時貞)がキリシタンとしてカリスマ的人気を集め、寛永14年10月25日(1637年12月11日)に彼を指導者に島原の民衆が決起。鎮圧しようとした島原藩を圧倒し、天草の民衆も呼応して決起して一揆勢は増加。島原と天草の一揆勢は廃城となっていた有馬家の居城・原城で合流しに籠城。約37000人に膨れ上がった。

乱を重く見た徳川家光率いる幕府は本格的な討伐隊を派遣したが、戦意の高い一揆勢は幕府軍すら圧倒し、幕府側の総大将の板倉重昌は戦死してしまう。


そこで幕府は新たに智将として恐れられ、「知恵伊豆」と呼ばれた伊豆守・松平信綱を総大将として派遣。信綱は忍者を使って城内を調べて兵糧攻めに出た。一揆勢が欧州国が助けに来てくれると信じている点から信綱は年が明けた頃にオランダに依頼して原城にオランダ船から艦砲射撃をさせた。異国の助けについて批判はあったが、一揆勢への心理作戦は効果が大きかった。矢文を使って城内との内通者も作り、内部からの切り崩し工作も図った。2月28日、ついに総攻撃が開始され、疲弊した一揆勢は総崩れとなり、天草四郎も討ち取られて一揆は鎮圧された。


乱後に信綱は堅高と勝家による領民への過酷な税や年貢・拷問こそが一揆の根本的原因であると幕府に報告し、幕府は一揆の責任をとらせて勝家と堅高は領地を没収され、勝家は後に斬首され、堅高は精神を病んで自害した。

キリシタンの動きは地に潜るようになり、隠れキリシタンとして幕末までその姿を見せないようになった。幕府はキリスト教の脅威と海外の存在感を脅威として認識する契機となり、鎖国体制を本格化させていった。


意義

島原の乱を宗教戦争や宗教弾圧と見なしたり、「幕府対キリシタン」の構図で見るのが多く、自身の失政を認めない勝家がキリシタンが主導した暴動と主張し、幕府はキリシタン弾圧の口実に使ったことからキリシタンの暴動という見方が定着した。しかし実際には宗教的面は薄く一揆勢は天草四郎など一部のキリシタンを除いて、ほとんどはキリシタンではない百姓や浪人が生き残りのために決起しており、現在のキリスト教本流は天草四郎や彼の関連人物を殉教者としては認めていない。


関連タグ

江戸時代 天草四郎 キリシタン 鎖国 島原 天草

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