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赤松則祐の編集履歴2015/05/10 09:31:35 版
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編集内容:建武政権まで加筆

赤松則祐

あかまつそくゆうまたはあかまつのりすけ

南北朝時代、室町時代の武将。鎌倉幕府討幕から足利義満の時代に至るまで活躍した播磨国の勇将

概要

赤松則祐とは播磨国(現在の兵庫県)出身の武将である。鎌倉時代末期から、南北朝時代室町時代にかけて活躍した。護良親王に従って討幕に功があり、建武政権下の赤松氏冷遇を経て足利尊氏の軍勢で活躍し、足利義詮足利義満と三代の将軍に有力守護として仕えた。

正和三年(1314年)の生まれで、父は赤松円心(俗名は赤松則村)、三男である。赤松氏は村上源氏の流れにして播磨佐用荘を支配する豪族であったとされる。しかし系図に異論もあり、楠木正成名和長年と同じく悪党と呼ばれた新興武士ではないかとも言われる。

生涯

護良親王の忠臣

少年期には比叡山延暦寺に入っており、天台座主(延暦寺の長のこと)である護良親王に仕えていたらしい。元弘元年(1331年)、後醍醐天皇鎌倉幕府打倒を目指して挙兵すると、親王に従って笠置山から赤坂城へと転戦する。楠木正成率いる赤坂城が陥落すると、護良親王に従って落ち延びる。山伏に姿を変えて熊野へと逃れるが、この親王一行には他にも小寺相模(頼季)、岡本三河(祐次)といった赤松一族の武士が加わっていたらしい(『太平記』巻八)。地元の豪族に擁立され大和国十津川で再挙兵するも、鎌倉方につく豪族もあって危険となったため、高野山から吉野へと転戦する。芋瀬という土地を通過する時に、中立派である芋瀬の領主が「親王の軍勢をお通ししたいが、そうなると鎌倉からどのような御咎めが下るかもしれない。鎌倉へ弁明する為に、軍中の名のある武士を捕虜として引き渡すか、さもなくば官軍の証たる錦の御旗を渡して欲しい。どちらの条件も飲めないならばやむを得ない、ここで一戦交えるまででござる」という非情の交渉を持ちかけてきた。この時に則祐は、劉邦の身代わりとして降伏し斬られた紀信の故事を挙げ、自分が捕虜となることを申し出る。親王の判断で御旗が渡されて窮地を脱したが、後に親王は則祐の忠義を「劉邦が天下を取るのに貢献した蕭何張良韓信の三傑の一人にも匹敵する」と称賛している(『太平記』巻五)。

桂川の戦い

親王が吉野の要害に三千の兵を連れて落ち着くと、則祐は父・赤松円心の下に親王の令旨をもたらして赤松一族の挙兵に加わる。幕府の京都六波羅探題は近江守護佐々木時信等の軍を送るが赤松氏の軍はこれを破って、京都に攻め上る。六波羅は二万騎の大軍を集めて郊外の桂川に防衛線を築いた。赤松勢三千騎は、この大軍を恐れて対岸から矢を射るだけで日が過ぎる。則祐は「兵力の劣勢のままで持久戦となれば、いずれ敗れてしまいます。勝算があるとすれば、敵の不意を衝くしかありません」と主張し、父の制止を振り切って単騎で桂川に乗り入れる。これを見て五騎の武士が続いた。六波羅勢は、この無謀な渡河をとても人間業ではないと呆れかつ恐れたようで、五人が河を渡っても攻めかかる者すらなく、川岸に並んでいた盾の群れも、そこだけ退いて隊列が乱れた。これを好機とみた赤松勢は「味方を討たすな」と一斉に渡河し、決死の覚悟で気を呑まれた六波羅勢に襲いかかった。六波羅勢二万騎もこれには圧倒されたようで、京都の街へと退散していった(『太平記』巻八)。赤松勢はそのまま京都に攻め込むが、六波羅探題の北条時益(南探題)と北条仲時(北探題)は敵が少勢であることを見抜き、市街戦に持ち込んで各個撃破する。赤松の軍は退却し、山崎石清水八幡宮(いずれも京都府)とに陣を構えて、六波羅の追撃軍を撃退し続けた。

建武政権での冷遇

さて苦戦する六波羅に答えて鎌倉から攻めのぼった足利尊氏が、後醍醐天皇の綸旨を受けて六波羅を攻め滅ぼす。こうして鎌倉幕府は滅亡し、建武政権が成立した。それぞれ軍功のあった足利尊氏や新田義貞、楠木正成、名和長年らには破格の恩賞があり、複数国の守護・国司に任ぜられる。しかし功績では彼らにも劣らない赤松円心ら赤松家は、いったん播磨守護に任ぜられるも召し上げられ、わずかに本拠地佐用荘の領有を認められただけであった。万里小路藤房が後醍醐天皇に奏上して建武政権の失政を諫言した時も、この恩賞の不公平が例に挙げられている(『太平記』巻十三)。

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