赤松貞明とは、大日本帝国海軍航空隊に所属した実在の軍人である。
概説
通称は「撃墜王」(当人曰く「撃墜王の中の撃墜王」)、愛称は「松っちゃん」。
1928年(昭和3年)に佐世保海兵団に四等兵として入隊し、その四年後の1932年(昭和7年)に第17期操練を卒業した戦闘機操縦者の古豪。
岩本徹三が34期生、坂井三郎が35期生だったといえば、その古株ぶりが分かるだろう。ちなみにこの二人の大エースも、太平洋戦争期でいえば十分に古豪の部類に入る。
最終階級は中尉。
日中戦争、太平洋戦争の両戦争に参加し、350機を撃墜した!! ……というのは本人の自己申告で、実際の撃墜スコアは30機前後とされている。それでも太平洋という戦場を戦い抜いた中では充分過ぎるレベルである。
特に局地戦闘機雷電(三菱J2M)の乗り手として知られ、「赤松中尉といえば雷電」と航空隊軍史記ファンからも雷電乗りの印象が強い。
人物
誰が呼んだか、「海軍航空隊の名物男」。
酒好き、喧嘩好き、女好きで、それを明け透けにやって見せた豪放磊落な人物であり、無頼漢のような生き方を地でやってのけた破天荒な御仁。
特に女遊びは後輩の「ゼロファイターゴッド」岩井勉も、「あまりに堂々とやるので笑うしかなかった(要訳)」と述懐している。
とにかく「何をやらせても強かった」というのが赤松という人物らしく、運動は柔道・相撲・水泳・剣道・弓道をこなし、何より古豪も古豪という老練ながら第一線での活躍を続けた戦闘機操縦士としての技量と精神力はだれしもが認めるところだったそうな。
あとなかなかの男前という。
そして破天荒なエピソードの多さから「直感型ファイター」と思われがちだが、実際は確固たる独自の航空戦術理論を持っていかなる戦闘機をも乗りこなしたバリバリの頭脳派。
雷電による「一撃離脱戦法」も、雷電という機体の特性を計算し尽くした末にたどり着いたものらしく、坂井三郎も「大先輩赤松中尉は頭脳明晰」とその切れ者ぶりを称賛している。
米軍のP-5175機の大群に零式艦上戦闘機で単機で突っ込み、無傷で1機撃墜して帰ってくる(のちの調査で事実と判明)という頭のオカシイ(賛辞)戦果を挙げたこともある。これについては「大群に単機で突っ込めば相手は味方の射線を気にして容易に攻撃できない」という、集団戦法の穴を突いた頭脳プレイだったりする。
豪快過ぎて上層部からは「粗暴な問題児」と看做されることも多かったが、部下思いで人懐っこい人柄から多くの後輩操縦士たちに慕われ、航空隊の教官として数多くのエースたちを育て上げた。
自分の分隊にかつての弟子が配属され、その過酷な勤務を聞いて「コイツに一週間ぐらい休暇をやってくれ」と上司に掛け合い、「赤松の申し出なら仕方ない」と通してもらったことがあるあたり、上からもなんだかんだと信頼されていた模様。
まさに理想の上司である。
こんな感じで、掘れば掘るほどエピソードは枚挙に暇がないぐらいある。
それほど誰もに愛され尊敬された、“海軍航空隊の生き字引”というべき人物だった。
戦後は地元に帰って酒屋を経営したという。
ただ酒好きが祟って晩年はアルコール依存症に陥り、1980年に70歳で肺炎を患ってこの世を去った。
生涯飛行時間6000時間、被撃墜回数0、被弾4発。
間違いなくリアルチートであり、後先見てもこれほど愛された好漢もそういないだろう。