概要
戦国時代末期の元亀2年(1571年)に誕生。
父は大和国にある柳生の領主で、柳生新陰流の開祖・柳生宗厳(石舟斎)。宗矩はその五男である。柳生家は南北朝時代から家系をたどれる家柄だったが、領地は大名とは比べ物にならないほど小さく、豊臣秀吉の時代には領地を失っていたという。
徳川家康に招かれ「無刀取り」を披露した父・宗厳に同行したことが縁となり、家康に仕え徳川家の剣術指南役として江戸柳生新陰流を広めたとされる。
関ヶ原の戦いでは前哨戦である会津征伐に参戦し大功をたて、豊臣政権時代に没収されていた旧領・大和柳生庄2000石を取り戻している(宗厳はまだ健在だったが、この領地は宗矩が受け取っている)。
敵方である石田三成の軍師・島左近とは交友の仲であり、家康は西軍攻略のために宗矩を左近に送ったとも言われる。
その時左近は「殿は決断力の遅いお方でね、家康を簡単に討てただろうに今も思い留まってる。殿に東軍に下った数多の将と仲直りしたらどうだ?と言っても、『そんな卑怯な真似は出来ない』って一向に聞いてくれない。悪いが俺は殿を裏切れない。仲の良いお前さんでも開く口はない。」(現代語訳)
と言って、宗矩を茫然とさせ、諦めさせて帰したと言う。
そして大坂の陣では秀忠の側近となり、秀忠の陣に攻め入った豊臣兵7人弱を撫で斬りにしたと言う。
ちなみに、宗矩はその時初めて剣をふるい人を殺したと伝えられる。
柳生家は新陰流を「活人剣」と呼び、剣は人を斬るものではなく、悪を斬るためのものという信念を持っていた。なので、宗矩が人を斬ったのも上記の大坂の陣が最初で最後であったとされる。
夏の陣(大坂の陣)直後、秀忠の娘の千姫を巡り、坂崎直盛が挙兵をすると、幕府はそれに対し直盛に一万の兵を挙兵する。
そして、直盛に切腹を命じる。その時また、彼とも友人だった宗矩を遣わす。
結局、直盛は自害。幕府に謀反をしたとし、坂崎家は滅亡
……かと、思われたが、その後宗矩が息子の平四郎と家臣を引き取る。その際、せめてもの報いと、宗矩は坂崎家の家紋を使い続け、事実上の滅亡を凌いだ。
これが後の「坂崎事件」「千姫事件」と言われる。
また、重度の愛煙家であったとされる。
沢庵和尚(沢庵宗彭)に「お前、煙から離れなさいよ」(現代語訳)と言われた際、
数メートルの長いキセルでたばこを吸い始め「離れたぞ」と答えたという。
(従来なら煙から離れる=禁煙という意味である。)
これにはさすがの沢庵和尚も呆れたらしい。
正保3年3月(1646年5月)に死去。享年76歳。
死因は肺がんとされ、上記の喫煙が原因だったとも推測される。
創作作品における柳生宗矩
息子の柳生三厳こと柳生十兵衛が有名であるせいか、あまり表舞台に出ない人物でもある。
秀忠及び家光が剣術師範として心酔したことや、現在に残る著書「兵法家伝書」に見られる剣禅一如・活人剣などの高邁な理想から剣聖として扱われることが多く、第9回NHK大河ドラマである「春の坂道」では主人公を務めている。
しかし一武芸者として不自然なほどの栄達や、関ヶ原・坂崎事件での隠密的な働き、そして柳生新陰流の正統を継いだ尾張柳生との確執などから、「柳生武芸帖」「影武者徳川家康」などの伝奇小説においては暗殺集団としての柳生剣士団や忍者を率いる稀代の謀略家として描かれることもある。
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