セバスキー航空機
このP-47の製造元「リパブリック」の前身。
元はロシア海軍で13機撃墜のエースパイロット、アレクサンダー・セバスキーがアメリカ亡命後の1931年に設立した会社で、彼自身が社長・設計・テストパイロットを兼任する非常に小さな設計事務所である。
1934年にカーチスP-36との競争試作に勝利し、初めてアメリカ陸軍からの受注を得る。この機が「セバスキー P-35」で、引き込み式の車輪や密閉式のコクピットを備えるアメリカ陸軍初の近代的な戦闘機である。
1939年にアレクサンダー・カルトベリを設計主任に雇い、「リパブリック」へと発展する。
なお、彼はのちにF-105も手がけている。
発展型『P-43 ランサー』
このP-35はP-43の原型にもなる。
P-43は一回り大きくなり、さらにエンジンに排気タービン(ターボ)を追加して高高度に対応。
車輪も完全に主翼内部に収納するなど、空力も改善された発展型である。
この頃はAP-4と命名されており、1939年5月にXP-40との評価試験が行われた。
結果、採用はされなかったが、評価試験の為にYP-43『ランサー』として13機が発注された。
P-43は1941年4月には全機が引き渡された。
飛行試験の結果、最高速度にして565km/hを記録して良好な性能を示した。
これに気をよくした陸軍は、生産型P-43をさらに54機発注。
リパブリックも、これを基にしたAP-4J(XP-44)とAP-4L(AP-10)を並行して開発していた。
だがXP-43もAP-10も、ドイツ戦闘機に太刀打ちできない事が判ったため、
80機の発注を得たXP-44は完成前にキャンセルされて、リパブリックは経営難になってしまう。
性能的には見劣りのするP-43を仕方なく80機生産させる事にしたのである。
追加生産分のP-43は「P-43A」と分類された。
だが肝心の排気タービンの調子が優れず、稼働率も低かったという。
中華民国向けにパワーアップ型の「P-43A-1」が108機用意され、日本機とも交戦したという。
もうひとつのAP-4
ここからはもう一つのAP-4改良型、「AP-10(XP-47)」が主役になる。
ドイツ戦闘機に勝てないと判断されたXP-47だったが、
小改良型のXP-47Aを経て、全面変更型となったXP-47Bが陸軍の目に留まり、発注されたのだ。
このXP-47Bは当時としても巨大な戦闘機で、
空冷星形のP&W R-2800「ダブルワスプ」エンジンを搭載する。
これは2000馬力級の過給機装備エンジンで、高高度性能に優れる。
機体も大きなものとなり、まさに『化け物』とも言うべき戦闘機である。
(設計者のカルトベリも『スタイルのいい恐竜』と言っている)
このXP-47Bは1941年5月6日に初飛行しており、素晴らしい性能を示した。
燃料タンクはコクピット下に1155L(305米ガロン)を収容できたが、
燃費が良くない事もあって後に不足している。
火力では翼内に12.7mm機銃8門を備え、弾薬も各銃425発(合計3400発!)用意されている。
巨大な機体に見合い、コクピットも非常に広い。
おかげで居住性は十分なものとなっており、なんとエアコンまで(!)備えている。
サンダーボルト(雷電)
P-47B制式採用
制式採用となったP-47ではあったが、大型機ならではの苦悩も付き纏った。
まず、あまりに重いのでなかなか離陸しない。
排気タービン・複雑な冷却機構を備えるP-47は、どうしても大きく・重くなってしまうのだ。
機体が重いという事はつまり、離着陸が難しいという事でもある。
特にエンジントラブルで不時着する際は神経を使ったという。
また、エンジン・排気タービンに関連する火災は問題であり、これは改良型のC型で改善される。
最後に舵が重い。
これは機体が大型・重量級なので仕方のない事でもあった。
特に急降下の時はただでさえ重い舵がさらに重くなり、
機体を引き起こせなくなってパイロットが何人も死亡している。
これも後に対策がとられ、改善している。
改良型、P-47C登場
陸軍はP-47に慣れていくに従い、徐々にその実力に気づき始める。
そこで、以上のような初期不良・独特のクセを修正したP-47Cをリパブリックに発注する。
まず舵の効きを良くするため、全金属製の舵を採用した。
次に火災発生の原因にもなっていた排気タービンを改良し、安全性を高めた。
他にもP-47Cは生産中にマイナーチェンジが何度も行われ、少しづつ改良されていった。
(胴体の延長・増加タンク装備・エンジン改良など)
決定版はP-47D
絶え間ない改良の結果、1942年末までには初期トラブルの多くが解決される事になった。
最初の配備先はイギリスである。
戦場の上空制圧や、爆撃機B-17のための護衛が求められたのである。
このP-47Dは12602機も生産され、最初と最後は明らかに別物となった。
まず増加タンクを両翼にも搭載できるように改造され、
さらにキャノピーがバブルタイプの視界改良型になった。
また、機内タンクも増設が続けられて1657kmも飛べるようになっている。
途中から対地攻撃に対応できるようになり、主翼に爆弾やロケット弾を搭載できるようになった。
最高速度も697km/hとなっており、P-51程ではないが、かなり高速である。
また、当時の戦闘機には珍しいことに、
P-47は『(高度が)上がれば上がるほどエンジンがよく回るようになる』と好評だった。
その後の改良型
D型以降も更なる高性能をめざし、いろいろと改良型が試されている。
XP-47H
クライスラーXIV-2220-1液冷エンジンに換装し、最高790km/hを目指した型。
1943年に試作されたものの、肝心のエンジンが不調で性能は揮わなかった。
(高度9100mで666km/h)
XP-47J
こちらも1943年末に1機だけが製作された。
エンジンカウリングなどの設計を変更して軽量化し、排気タービンも変更して最大出力2800馬力を誇る。
しかし、その頃には高高度迎撃専門のXP-72の開発が始まっており、結局テスト機として使われた。
1944年8月5日には高度10500mで813km/hを記録するが、ジェット機の方が有望とされて開発中止。
ちなみに、XP-72も同様の理由で開発が中止されている。
(こちらは最大速度772km/h)
P-47M
P-47DにXP-47Jのエンジン・排気タービンを搭載したもの。
主翼のハードポイントを廃止して軽量化され、最大761km/hを誇る。
Me262やV-1へ対抗するため開発されたが、肝心のエンジンで不調が相次いだ。
解決は1945年4月になってからだが、その頃には戦争は終結間近だった。
(1945年5月にドイツ降伏)
P-47N
主翼を再設計して燃料搭載量を増やした型。
太平洋向けの長距離型で、B-29の護衛も主眼にして開発されている。
これにより航続距離が長くなり、B-29迎撃の日本戦闘機隊を苦しめた。
戦場に轟く雷電
まず頑丈で、また高高度性能にも優れるP-47は縦横に活躍した。
最初はB-17の編隊護衛任務のために使われている。
改良されるごとに航続距離は長くなり、
ついには最初から最後まで付きっきりで爆撃機を護衛できるようになった。
重量級なので、もちろん急降下からの一撃離脱戦法は得意である。
しかも大きなプロペラ直径のおかげで、急上昇も大得意と来ている。
つまり、追いかけられたら最後、急降下でも急上昇でも逃げられない戦闘機なのだ。
さらに12.7mm機銃をなんと8門も搭載しているため、火力も絶大だ。
ドイツのベテランパイロットからは『P-51と違い、重武装に頑丈で恐ろしい』とまで評されている。
搭載兵器もふつうの爆弾だけでなく、
・3連装115mmM8ロケットランチャー
・HVAR(ロケット弾)
などと強力な物が揃っており、合計では何千という戦車・機関車・航空機、トラックその他を破壊している。
これでは地上を逃げ回るドイツ兵がらすればたまったもんじゃない。
エースパイロットも輩出しており、しかも上位10名が全員生存で終戦を迎えている。
ここでは上位3名を列記する。
フランシス・S・ギャビー・ガブレスキー中佐:31機撃墜
ロバート・S・ボブ・ジョンソン大尉:28機撃墜
ヒューバート・A・ハブ・ゼムキ大佐:20機撃墜
1944年にもなるとドイツ空軍の勢力が下火になり、来襲する戦闘機も少なくなった。
そこでP-47は爆撃機護衛任務の帰り道で地上の目標を機銃掃射し、猛威をふるっている。
機銃掃射では戦車を破壊することは出来ないが、例えばエンジン火災を起こす位は十分できた。
(ましてやドイツ戦車はガソリンエンジン駆動で、火災をおこし易い)
そういう訳で、火力と搭載量に優れたP-47はP-51と違い、対地攻撃にも多く使われた。
しかも空冷エンジンは被弾に強い性質があり、おまけにP-47は火災対策が厳重にされていた。
その上高高度飛行のためにエンジンの出力が十分足りており、戦闘爆撃機としては申し分無い。
こうしてP-47は『ヤーボ(戦闘爆撃機)』の代名詞にもなり、「サンダーボルト」の名を恐怖とともに轟かせた。(「雷電」だけに)
連装機銃と火力
アメリカでは当時、戦闘機に12.7mm機銃を連装するのが普通だった。
これは2門(カーチス ホーク)⇒4門(P-40)⇒6門(P-51)と増えていき、
このP-47では8門という数となった。
機銃を多数連装する利点は『弾道が全部同じなので調整や照準で有利』というものがある。
イギリスのハリケーンmk.1cなどは7.7mm機銃12連装という驚異的弾幕を誇っている。
7.7mm機銃は弾丸が小さく、一発の破壊力は期待できないが連装になると話は別である。
その弾幕はシャワーにも例えられ、鈍重な爆撃機などには脅威となった。
これは戦闘機にとっても同様で、「どこかに穴が開く」と思うと皆、気が気でならなかった。
「なら、日本も7.7mm機銃を10連装位すれば良かったじゃないか」こう思われるかもしれない。
しかし、小口径の機銃を多数搭載するのは重量面で不利になるのである。
いくら7.7mmでも、機銃本体も10㎏程度はあるだろう。それに弾薬や補強も必要なのだ。
10連装ということは合計100㎏となり、これだけでも爆弾を積み込む事に等しい。
それに弾薬や補強は別計算である。
また重量が増えるという事は、飛行性能を犠牲にする事でもあり、
元よりギリギリの設計だった日本機にはハードルの高い目標だったのだ。
加えて、20mm機銃のような大口径機銃を積む方が火力とコストと継戦能力(弾一発あたりの敵に与える損害)に優れており、
最初からスーパーヘビー級なのにさらに機銃の搭載数が非常に多いこともあって、
エンジンの出力ではカバーできない点に関しては最後まで自らの重量に悩まされたサンダーボルトを教訓にしたかの如く、
のちにアメリカもそちらに舵を切った。
(6連装12.7mm機銃⇒4連装20mm機銃)
それが正しいことを証明するように、上記のハリケーンも対地攻撃用のMk.IIDは40㎜機関砲2連装というカノーネンフォーゲルもビックリの重武装仕様となっている。
その後のサンダーボルト
『サンダーボルト』の名はA-10が引き継ぐことになった。
元々は高高度戦闘機のP-47だが、あまりに対地攻撃で有名になったのだろう。
P-47の戦歴は第二次世界大戦で終わる。
1948年、アメリカ陸軍航空隊(USAAF)から退役。
1953年、アメリカ州空軍(ANG)から退役。
ほぼ第二次世界大戦で使い尽くされたP-47だったが、その意義は大きかったと言える。
まずP-38等とともに、排気タービンを製品として完成させるのに貢献した。
また、アメリカ陸軍航空隊が実力を十二分に示し、空軍として独立する契機も作った。
P-47はノルマンディーを縦横に駆け回り、ドイツ戦車に恐怖を見せたのだ。
その活躍は陸軍上層部にも知れ渡り、「空軍」としての独立採算へと舵を切らせた。
(なにもP-47の活躍だけの話でも無いが)
逸話
第56戦闘航空軍所属のロバート・S・ジョンソン大尉が搭乗するP-47が被弾して帰投する最中にドイツ空軍の撃墜王、エゴン・マイヤー中佐が搭乗するFw190が追いつき、全弾叩き込んだが火もつかず、撃墜出来なかった。マイヤー中佐はP-47の頑丈さに敬服して引き揚げていった、といったものが残されている。
しばしば地上の友軍からFw190と間違われて誤射されるという被害を受けた。胴体が太いP-47と、胴体を絞ったFw190は、一見すると似ても似つかない機体に見えるが、P-47の胴体は上下方向に対して太いのであって、左右方向にはさして幅がある訳ではなく、真下からのP-47の機影はFw190に似通っていたためこの様な事態が起きたものと見られる。
そのFw190と並ぶ、ドイツの主力戦闘機Bf109に関して、P-47絡みの次の逸話がある。
当時のドイツ軍部の中には、Bf109の航続距離の短さに不満を持っていた者もいたらしく、空軍技術局長が設計者のヴィリー・メッサーシュミット博士に航続力の増加を求めたところ、博士は「あなたの望むものは、速い戦闘機なのか、それともただの納屋の戸なのか」と怒鳴りつけたと言う。
Bf109は「可能な限りコンパクトに切り詰めた機体に、高出力なエンジンを搭載する」というコンセプトで設計されていた為、燃料搭載量をアップする為には機体を大きくするしかなく、そうすれば文字通り、鈍重な“納屋の戸”になると言いたかったらしい。
ところがその後、博士は件の技術局長と共に米軍の空襲から防空壕に逃げ込む羽目になり、機銃掃射をしかけるP-47を目の当たりにして、技術局長から「ほら、そこにきみの言った納屋の戸が飛んでいるぞ」とやり返されたという。
日本にも同様の逸話がある。
P-47登場当初、旧日本軍は「トラックみたいな戦闘機」「こんなトラックで空中戦なんて出来るのか」と嘲笑っていた。
ところが、大戦末期、日本軍はB-29迎撃の為の高高度迎撃機が必要になり、二千馬力のエンジンに排気タービンを備えた戦闘機を試作した。するとできあがったのはキ87やキ94IIという、殆どP-47並の機容の大型戦闘機である。
要するに“排気タービン付きの二千馬力級の戦闘機”を試作したら、P-47の様な「トラック」になってしまったという話であり、当時の関係者の中には「日本は何も判っていなかった」とその不明さを恥じる人もいる。