北条貞時
ほうじょうさだとき
人物
弘安7年4月4日(1284年4月20日)に父・時宗が34歳で亡くなり、貞時が第9代執権に就任する。この時の貞時はわずか13歳だった。8月には佐介流の北条時光が興福寺の満実法印と陰謀を企てる事件が起きる等、第9代執権の船出は決して良いものではなかった。これは貞時には兄弟がおらず、また叔父にあたる時宗の同母弟・宗政や異母弟・宗頼が早世(時宗より先に亡くなっており、2人の弟を信頼していた時宗にはかなり痛手だった)したことにより支える親族がいなかったことが原因とされている。
そのため、幕政は外祖父(血縁上は外伯父)の安達泰盛が掌握していたが、翌弘安8年(1285年)11月17日、かねてより対立していた貞時の乳母の夫・平頼綱の讒言により霜月騒動が勃発。泰盛派は一掃されることとなる。
正応2年(1289年)には第7代征夷大将軍・惟康親王を退け、久明親王を第8代征夷大将軍として擁立。
正応6年(1293年)4月22日には頼綱を粛清している(平禅門の乱)。なお、この事件はこの時に起きた大地震での混乱を利用して起こしている。
こうして実権を自らの手の中に戻した貞時は従兄弟である師時(宗政の子でのちの第10代執権)や宗方(宗頼の子で時宗の猶子)を抜擢、霜月騒動で追放されていた金沢流の顕時の復権を断行する。10月には引付衆を廃止。永仁4年(1296年)には鎮西探題を新たに設置する。元寇による膨大な出費に苦しむ御家人を救済するために永仁5年(1297年)に永仁の徳政令を発布するが、これによって御家人は余計に借金しづらくなるという事態に陥ってしまう。
正安3年(1301年)に師時に執権職を譲り出家したが、出家後も権力は貞時の手の中にあった。嘉元3年(1305年)4月23日、内管領の宗方によって貞時の命として連署の北条時村が殺害される事件が起きる。貞時は5月2日、時村殺害は誤りとして五大院高頼らを誅殺し、5月4日には宗方の陰謀として宗方とその与党を誅殺した。
徳治3年(1308年)8月4日、第8代征夷大将軍・久明親王を退け、久明前将軍の子・守邦親王を擁立した。
応長元年(1311年)9月22日、幼い高時の中継ぎ執権だった師時が死去。その約1ヵ月後である10月26日(1311年12月6日)に貞時が死去。享年41(満39歳没)。
その他
大河ドラマ『北条時宗』
父・時宗が主役の『北条時宗』では第26話で時宗と時輔が久々に顔を合わせ、語り合っている最中に誕生した。翌第27話では安達の館から執権館に母子共々戻ろうとしたところを名越流の教時とその姉・桔梗が差し向けた刺客に襲われ、御内人数人が死傷する事件が起きる。この事件に怒った時宗により二月騒動が勃発する。事件後は両親を相次いで失い、時宗に引き取られた時輔の嫡男・時利と兄弟同然(引き取られた当初は「兄弟ではありませぬ!」と時宗に反発し、時宗に叱られる)に育つ。幼少ながらもプライドが高く、元服前には時利との『兄弟』喧嘩から失踪事件を起こす。執権館全体を巻き込んだ失踪事件は、懐妊していた貞時の母・祝子を流産させてしまうことになる。時宗が亡くなる直前には「人を殺すな」と遺言されるが、守られることはなかった。