山本勘助
やまもとかんすけ
武田信玄に仕えた名参謀。同時代文書での表記は「山本菅助」。諱は晴幸とされるが、室町幕府将軍・足利義晴の諱と重複するため、武田の家臣に過ぎない勘助が本当に名乗ったかは疑問視されている。
- 生:明応二年(西暦1493年)
- 没:永禄四年九月十日(西暦1561年)
※生年没年は甲陽軍鑑による。
概要
出自は三河国(現在の愛知県東部)の出身だといわれるが、別の説として駿河国(静岡県東部)の生まれともされている。基本的に勘助の活躍は『甲陽軍鑑』以外に殆ど見受けられず、よってこの項目でも基本的に『甲陽軍鑑』に比準するが、『甲陽軍鑑』が史料としての信憑性に欠けるという点だけは付す。
さて、その『甲陽軍艦』によらば容貌に恵まれず隻眼で戦傷により片足が動かなかったとされる。その相貌のせいで当初、仕官を希望した今川家にて袖にされ、駿河にて九年を雌伏する事となる。
後、築城や城攻めに通じた牢人が駿河にいるという風評が武田家重臣、板垣信方の耳に入ると信方は若き武田晴信に推挙し、晴信は勘助を足軽大将としては破格の二百貫にて登用する。
その後は武田家にて一貫して活躍。諸国放浪で得た見識と天才的軍略で信玄を支え、また、政治面でも実力を発揮し、優れた築城術を見せたり、分国法制定の献策をしたとも伝わる(小諸城、高遠城、海津城の普請は勘助によるものとされる)。真田三代記によれば真田幸隆とは懇意の仲だったそうな。
そして、上杉謙信との第四次川中島の戦いで討たれて戦死したとされている。
しかし「山本勘助」なる人物の記載は『甲陽軍艦』にしか見受けられる事がない為、江戸期から既にその存在を疑われてきた。架空説が有力になりつつあった1969年(昭和44年)、大河ドラマ「天と地と」を視聴した北海道釧路市在住の視聴者が所持している先祖伝来の古文書を発掘し、「山本菅助」なる人物の名が入った文書(市河文書)を発見し鑑定に出した所、真物という判定が下され、瀬戸際での大逆転にて「山本勘助」の存在は取り敢えず認められる事になったのである。
2008年(平成20年)には群馬県安中市の安中市学習の森ふるさと学習館にて真下家所蔵文書調査の結果、武田家宛の文書が発見され、これを山梨県立博物館が資料調査したところ、五点の新出文書が確認された(真下家の家伝では無く、過去に他家から収集した文書であるため真下家「所蔵」文書と呼ぶ)。その内から「山本菅助」宛の文書が三通、「菅助」子孫と目される山本十左衛門尉宛ての文書も二通、発見されて、「山本菅助」の子孫についても次第に動向が明らかになってきた。
近年の研究では武田氏滅亡後、勘助の子孫は徳川家康に仕え、越前国松平家などに広がって仕官したとされる。昭和期の山本五十六が越後国長岡藩の家老、山本氏出身でこの山本氏が山本勘助の家系であるという話は有名である。平成十九年年には黒河内家に宛てられた文書が見つかり、その中に「山本勘助を大将にして城攻めの準備をせよ」と記されとされている事から、どうやら山本勘助なる人物が存在した事は間違いなく、立場も国家間のトップシークレットに携わる地位にいた事が確認されている。
また、山本勘助は武田五名臣(武田四天王とは別)の一人に挙げられる。他の四人は信虎の時代から活躍した前線指揮官であるのに対し、勘助だけはその用兵や築城技術を買われて武田晴信に登用された参謀的人物となっている。
戦国大戦において
「1560尾張の風雲児」から武田家武将として参戦。レアリティは最上位のSR。
計略「啄木鳥戦法」は敵の武力を下げた上で強制的に自分に向かわせる計略で、他の味方と連携することで高い殲滅力を発揮する。
伏兵・制圧・攻城と実用的な特技を3つ持ち、その全てを活かせる高い統率力10により完成された能力。
しかし2.5コストを割く武将でありながら武力6しかないので、丁寧な運用が必要になる。
群雄伝では今川家で燻っていたところを板垣信方の推挙で武田家に仕官し、武田信玄を支え続け、
自身は真田幸隆を推挙。その後は第四次川中島合戦で宇佐美定満に討たれる。
今川義元の討死に関与していたことを匂わせる発言もある。