用語
太田亮が近衛家に対して用いたのが最初であるが、学術用語・専門用語として定着することはなく、系図愛好家・好事家らの間の隠語でしかなかった。
相続した人物
鷹司輔平:閑院宮直仁親王(第113代東山天皇の第6皇子)の第4王子、鷹司家を相続。
概説
江戸時代までは、彼らのような出自を持つ人々を、源氏・平氏などの賜姓皇族(皇族の身分を離れて臣籍に下った人物およびその子孫)と同じく「王孫」と呼んでいた。
氏族・系図研究の大家であった太田亮が1920年(大正9年)刊行の『姓氏家系辞書』において近衛信尋を「皇別摂家の鼻祖」と読んだのがこの語の初出であるが、一条家や鷹司家に対しては「皇別摂家」の語は使われなかった。太田が1934年(昭和9年)にまとめた畢生の大著『姓氏家系大辞典』は、信尋以後の近衛家を「皇胤近衛家」と呼んでそれ以前の近衛家と区別している。
ただしここでは近衛・一条・鷹司3家のいずれにも「皇別摂家」を使っていない。このあと、丹羽基二なども稀に近衛家を指してこの語を用いたが、いずれにせよ広く用いられるには至らず、歴史学者が使う学術用語としても、在野の系図研究家が使う専門用語としても、この言葉が定着することはなかった。
以上のように「皇別摂家」の語は、もっぱら五摂家筆頭とされる近衛家の貴種性を表現する修辞の一つに過ぎなかったが、のちに用法を拡大し、摂家(近衛・一条・鷹司)にとどまらずその男系血統の子孫たち、つまり本家に加えて分家や他家の養子として分かれた系統についても、男系の実親子関係をたどって近世の皇室以来の血統を保持している子孫まで含まれるようになった。
古代の天皇家は源氏・平氏などの賜姓皇族を多数輩出したが、中世以降は一転して激減したため新規に生まれた皇別氏族は希少性が高くなった。養子として他家を相続したとはいえ、公家中の最上位にあって親王家よりも席次が高かった摂家を継承し、伏見宮系の各宮家よりも天皇家に近い男系血統を伝える「皇別摂家」は、名門家系や氏族研究に関心を持つ一部の歴史愛好家などから特に尊貴な存在として興味を持たれるようになったと思われる。だがあくまでもそうした関心による分類に過ぎず、ある人物が「皇別摂家」に該当するゆえに他の摂家・華族と異なる特別な制度上の扱いを受けるということがなかったのは言うまでもない。