日本プロ野球(NPB)におけるドラフト会議
1965年から始まった日本プロ野球の新人選手を指名するための会議で、毎年シーズンが終了した10月から11月の時期にて行われる。
指名の対象となるのは過去に日本のプロ野球球団に在籍した経験の無い中学校・高校・高等専門学校・大学・社会人・独立リーグの選手等でなおかつ日本国籍を有している者、巨人軍・陽岱鋼のように他国から留学してきた者も条件となる。
また後述のトラブルが起こった経緯から、本人にプロ入りの意思がない者は現在は対象としてはならないことになっており、2004年より「プロ志望届」制度が設けられた。
夏の全国高等学校野球選手権大会終了からドラフト会議開催直前の指定された締切日までに届けを提出した者が対象となる。
学生の場合は対象ドラフト会議後翌年3月に卒業見込みである事と、プロ志望届を各管理団体に提出している事が条件に含まれ、一般企業が運営する社会人野球の選手は高卒なら3年以上、大卒なら2年以上のキャリアがなければいけないが、企業がチームを解散させた場合、特例により高卒3年、大卒2年の枠を外すこともある。
また、年齢層は高校3年生である17、18歳以上からということになっているが、近年では26歳が「一応の」上限となっている。とはいえあくまで「一応の」という意味であって、かつては中学を卒業したばかりの15歳の少年(阪神・辻本賢人投手)が指名されたことや、30歳で指名された選手も何人か存在している。
余談だが、学校教育法第1条に準じた学校・組織に生徒として所属していた経歴があれば、野球部に所属していなくても指名可能であり、過去には北海道日本ハムファイターズがソフトボールの捕手であった大嶋匠を指名し、獲得に至っている。
また、ルールの上では性別制限はないため、女性も指名可能だが、今まで女性選手を獲得に至ったNPBの球団は無い。
ルールなどは時代によって異なっており、数多くのドラマや事件がこれまで数多く生まれているが、アメリカメジャーリーグのように、新人選手選択権が前年最下位チームから一番有利に働く完全ウェーバー制ドラフトは、とある金満球団の圧力(とされる噂)のせいでまだ一度も実施されていないのが現状である。
現在行われている制度は12球団すべてが1位の選手を指名、直後にクジをひいて交渉権を確定、外れたチームは改めて1位の選手を指名、そのくり返しを12球団が1位を確定するまで行う。2位以降は下位チームからの完全ウエーバー制であり、各チームが必要とする選手がなくなるまで指名を行う。現状、総定員は決まっていないが12球団で120人というのが暗黙の了解で、その前で指名は打ち切られることとなっている。
これらの指名が終わると希望球団による育成選手の指名が行われ、これを「育成ドラフト」という。このドラフトに指名された選手は正規のドラフトとちがって1軍の試合に出場する権利がなく、育成期間の2年を過ぎると基本的に契約を打ち切られることとなり(延長あり)、2年のうちに正規の選手に登録(支配下登録)されなければならない制約がある。待遇の差はほかにもあり、育成選手には低額の支度金はあるが高額の契約金はなく(支配下から格下げになったドラフト指名選手には過去に支給されているが)、年俸も低く抑えられ、背番号も3ケタとなっている。
しかし、育成から這い上がり、支配下選手として一軍で活躍している選手(ソフトバンク・千賀滉大投手 巨人・山口鉄也投手 など)も少なからず存在する。
また、あまり知られてないが、独立リーグでもドラフト会議が行われ、各チーム毎年10人ほどが指名され、上限年齢26歳までに日本プロ野球入りを目指すことになっている。
関連項目
ドラフト会議にて事件となった選手
江川卓、工藤公康、桑田真澄、城島健司:それぞれドラフト会議において物議を醸した指名選手。江川の件は俗に「空白の一日」という通称で知られており、工藤、桑田、城島は大学進学予定者だったのに半ば強引に指名されて入団した経緯があり、後の制度改革への一因となっている。
荒川尭:1969年のドラフト会議にて大洋ホエールズから指名を受けたが、入団を拒否。しかし、これを不服と見た大洋ファンは荒川を襲撃。荒川は選手生命が絶たれるレベルの大怪我を負ってしまう。この事件は俗に「荒川事件」と呼ばれ、今なお、プロ野球史上最低最悪の事件として語り継がれている。