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光明天皇の編集履歴

2019-02-28 19:50:51 バージョン

光明天皇

こうみょうてんのう

北朝第2代。吉野に追われた後醍醐天皇に代わって足利尊氏に推されて皇位についた天皇。

概要

生没年:元享元年(1321年)~康暦2年・天寿6年(1380年)6月崩御

持明院統の流れをくむ第92代・後伏見天皇の第二皇子。母は西園寺公衡の娘・藤原寧子(広義門院)、名は豊仁という。同母兄に北朝第1代・光厳天皇

鎌倉幕府滅亡

元弘元年(1331年)、大覚寺統の流れをくむ第96代・後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒の計画が発覚、天皇は正中元年(1324年)にも同様の計画を企図し、謝罪の意を示す誓紙を提出する事件を起こしていたため、今回は幕府に許されず隠岐に配流となった(元弘の変)。

後醍醐天皇を追放したこの事件の結果、鎌倉幕府は持明院統・第92代・後伏見天皇の第一皇子・量仁親王を皇位につけ、いったんは事態の収拾に成功した。


しかし、元弘3年(1333年)、比叡山延暦寺の天台座主になっていた後醍醐天皇の皇子・護良親王が討幕の令旨を発すると、これに楠木正成赤松円心らが呼応、鎮圧軍を指揮していた足利高氏が討幕側に寝返ると一気に幕府は崩壊、隠岐から脱出した後醍醐天皇は京の都に帰り新たな政治をはじめることとなった。

これにより光厳天皇は上皇になり、初めから皇位につかなかったことにされた。

建武の新政の失敗、室町幕府の成立

建武2年(1335年)、後醍醐天皇による公家優先の政治に不満を持つ武士と鎌倉幕府残党3万が起こした「中先代の乱」を鎮圧した足利尊氏(高氏を改名)・直義兄弟は鎌倉において反旗を翻し、鎮圧に向かった新田義貞を破り京の都に攻めあがる。

朝廷軍は楠木正成新田義貞北畠顕家らの活躍により、いったんは足利軍を撃退、九州に追い払うことに成功するが、朝廷から離反した赤松円心が播磨に朝廷軍を釘づけにする一方、建武3年(1336年)、九州に落ち延びた尊氏・直義兄弟が西国の武士を糾合し逆襲、湊川の戦で楠木正成・正李兄弟が敗死、新田義貞が逃亡したことにより、後醍醐天皇といったんは都に戻り、天皇の皇子・成良親王を時代の皇太子に定めるも、後醍醐帝は都から逃れ吉野に新たな朝廷(南朝)を作ることとなった。

この間、足利尊氏は光厳上皇の院宣を得て自軍の正当化を図り、建武3年(1336年)、上皇の弟宮・豊仁親王が皇位につくことになった(光明天皇、北朝)。


暦王元年(1338年)、皇太子・成良親王を廃して光厳上皇の第一皇子・益仁親王(後に興仁と改める)の立太子の儀を行い、貞和4年(1348年)、親王に譲位(崇光天皇)、みずからは上皇となった。

同じ年、足利尊氏は征夷大将軍に任じられ、室町幕府の歴史がはじまった。

観応の擾乱

貞和4年(1348年)より、幕政を主導する足利直義と執事・高師直との対立が表面化、直義が師直を討って後は尊氏・義詮父子との対立に発展した。

対立が激化するなか、正平6年(1351年)尊氏・義詮父子は南朝に降伏、後村上天皇が吉野より京に帰ると崇光天皇は廃され、北朝もまた廃された。

翌正平7年(1352年)、南朝によって光厳上皇・光明上皇・崇光天皇は大和国賀名生に拉致された。

この事態にあわてた幕府は京に唯一残された光厳天皇の第二皇子・弥仁親王を皇位につけ(北朝第4代・後光厳天皇)、北朝を再興させることとなった。

光明天皇崩御

一方、光明天皇は、正平10年(1355年)に京に還されると仏門に入り、康暦2年(1380年)に崩御、大光明寺陵に葬られた。

関連タグ

鎌倉時代 鎌倉幕府 南北朝時代 室町幕府

後醍醐天皇 足利尊氏


北朝皇位

初代北朝天皇第2代北朝天皇第3代北朝天皇
光厳天皇光明天皇崇光天皇
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