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鷹司政通の編集履歴

2019-04-02 13:10:07 バージョン

鷹司政通

たかつかさまさみち

鷹司政通とは江戸時代後期の公卿

重要

父は関白鷹司政煕、母は蜂須賀儀子。正室は徳川治紀の娘・鄰姫(清子)。官位は従一位、関白太政大臣


生誕

生誕 寛政元年7月2日(1789年8月22日


死没

明治元年10月16日(1868年11月29日


経歴

文政6年(1823年)に関白に就任、天保13年(1842年)には太政大臣に就任する。5年前後で関白職を辞する当時の慣例に反して安政3年(1856年)に辞任するまで30年以上の長期にわたって関白の地位にあり、朝廷で大きな権力を持った。


弘化3年(1846年)に仁孝天皇が急逝した際には、喪を秘して政通を准摂政として事態の収拾を図った。孝明天皇の信認も厚く、関白辞任後(九条尚忠が後任)も内覧を許され、依然として朝議に隠然たる影響力を行使した。安政3年(1856年)12月9日には異例の太閤の称号を孝明天皇から贈られる(本来「太閤」は関白職を子弟に譲った前関白を指す)。義弟の水戸藩主・徳川斉昭から異国情勢についてこまめに連絡を受け、孝明天皇に知らせた。


当初は開国論に立って日米和親条約締結を主張したが、若手公卿の批判を受けると一転して攘夷派となる。これが幕府の怒りに触れて落飾し、出家した。


その後、明治元年(1868年)に死去した。


系図

東山天皇閑院宮直仁親王鷹司輔平鷹司政煕鷹司政通

家族

父 - 鷹司政煕

母 - 蜂須賀儀子(第10代徳島藩主蜂須賀重喜次女)

妻 - 徳川清子(第7代水戸藩主徳川治紀娘・鄰姫)

子 - 主だった人物のみ表記

男子:鷹司輔煕

男子:華園摂信(真宗興正寺第27世門主・本寂

女子:鷹司介子(専修寺円禧夫人)

女子:鷹司興子(本照寺攝喜夫人)

女子:鷹司麗子(久我建通室)

女子:鷹司標子(蜂須賀斉裕室)

男子:徳大寺公純

男子:九条幸経

女子:鷹司積子(伏見宮貞教親王妃)

男子:渋谷教応(真宗佛光寺第25世門主・真達)

女子:鷹司美津子(今出川実順室)

養子

養女:鷹司通子(久我建通の娘・前田慶寧室)

養女:鷹司任子(妹・第13代将軍徳川家定室)

孫 - 主だった人物のみ表記

孫:徳大寺実則

孫:西園寺公望

孫:鷹司輔政 - 鷹司輔煕の子

孫:菊亭脩季 - 鷹司輔煕の子

孫:蜂須賀茂韶- 鷹司標子の子


関連項目

公家 鷹司家 関白 太政大臣

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