ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

松平信康の編集履歴

2019-04-19 10:14:15 バージョン

松平信康

まつだいらのぶやす

戦国武将。徳川家康の長男。

概説

永禄2年(1559年)生まれ、天正7年(1579年)没。

戦国武将であり徳川家康の長男。築山殿との間に生まれた。

松平家が今川家の傘下にいた時期に駿府で生まれたが、人質交換で岡崎へ移った。織田信長の娘の徳姫結婚し、元服時に信長から諱の一字を貰う。

家康が浜松に移ってから岡崎城を任せられ、武田家との戦いで多くの功績を上げる。

しかし、家康との間に何らかの問題(性格的な問題らしい)があり、信長の娘婿を勝手に処分できないため、家康は信康の処分について信長に相談し、「思い通りにせよ」と言質を得たうえで、築山殿も殺害し、信康を自害させた。享年21歳。介錯を行ったのは、服部半蔵だったとされる。


なおこの時、のちに徳川家を継いだ弟の秀忠は、その年に生まれたばかりの乳児であった。長女は小笠原秀政、次女は本多忠政にそれぞれ嫁ぎ、両者とも多くの子宝に恵まれた。信康の孫や曾孫の世代での近親結婚も多く、元総理大臣の細川護煕は岡山池田家出身の父方祖母から信康の娘二人の血を受け継いでいる。

徳姫は娘達を家康のもとに残し、兄の織田信忠に引き取られ、晩年には義弟の松平忠吉から所領を与えられた。


人物像

信康は、後に父・家康が嘆くほど有能な武将だったようである。

また、異母弟・於義丸(後の結城秀康)が自分の子であることに疑いをもっていた父・家康に於義丸を会わせ、渋る家康に認知をするよう迫ったエピソードが残されている。

ただし、年が近い大久保忠教のお三河物語によると、戦・乗馬鷹狩りにばかり関心が強かったというので、武将以外の才能は乏しかった疑いがある。

織田信長は信康の器量が嫡男・信忠に勝っていることを恐れて信康の処断を家康に迫ったという説があるが、最近の研究では織田信忠の器量が松平信康の器量を上回っていたとされている。

また近年では、信康の死の前後に岡崎城に配属されていた家臣の多くが大小の罰を受けていることから、岡崎城の家臣団と浜松城の家臣団の深刻な対立があり、仮に信康が望まなかったとしても担ぎ上げられる可能性があったために、徳川家が割れる前に家康が処断したという説がある。


性格は、弟達の中でも家康に嫌われた松平忠輝に似ていたらしい。


創作

信長の忍び

クールな性格の少年

超が着くほどヤンデレな母・築山殿を厭っており、千鳥が築山殿に襲撃された際には部下を向かわせて拘束させ、「出来ることなら我が一族の恥を見てしまった貴女も口封じのために消したいくらいだ」と呟いていた。


おんな城主直虎

演:平埜生成

家康と瀬名御前の嫡男として幼年期から登場。視点が直政に移り変わってからは遠縁であることも手伝って、直政が浜松と岡崎の使いに立つこととなる。

聡明かつ有能で視野も広く、前線で功績を立てる浜松に対して冷遇されがちな岡崎側の弁護をしつつ、同時に父の立場もよく理解しているため、家康からも「いずれ後を譲ったら直政と良い主従になる」と将来を期待されていたが、信長の好意(という名目の取り込み)を二度断ったがために警戒心を抱かれてしまい・・。


関連タグ

徳川家康(父) 築山殿(母)

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました