概要
Googleマップなどで見てもらえばわかるだろうが、なんとこの成田空港、敷地内に私有地がある。
いや、正確に言えば私有地を取り囲むように空港が建設されているのだ。この私有地には現在でも民間人が農作業やペンション業に従事し、時折「空港の廃港」を主張する団体がデモを行っている。
成田空港周辺を訪れたことのある人は、空港の脇にひっそりと建つ農家の入り口にこれ見よがしに「第3滑走路粉砕!」と書かれた立看板を設置してあるのを一度は見たことがあるはず。
なぜこのようなことになっているのか。成田空港を語るには避けて通れない暗い負の歴史がある
背景
空港の建設地に選ばれた三里塚周辺は、戦後満州や沖縄からの引揚者が国策で入植し、20年近い歳月をかけてようやく自分の土地で耕作することが出来るようになった農家が多かった。そのため国側も建設地の選定に際し、「先祖代々の土地ではないから、容易に手放すだろう」とタカをくくった節もあったのである。
国側も相場の5倍以上の値段で土地を買収すること、民家の建て替え費の保証など破格の条件で立ち退きを提案し、予定された89%もの土地を買収することに成功した。
しかし、残った強硬派の反対派に対しては空港建設を大前提かつ「金で動くに決まっている」という態度をとった。その上当時はまだ戦争の記憶が色濃く、さらに空港との共存が一般的ではなかったため、「騒音で牛の乳が出なくなる」「戦争が起きたら爆弾が落とされる」といった根拠のないデモにおびえた農民たちの不安払拭に努めないなど、不誠実な対応を取り続けた。
この政府のやり方に地元農民は猛反発し「三里塚芝山連合空港反対同盟」を結成、「軍事空港反対」をスローガンに抗議を始めた。反対運動にはまだ幼い子供や老人、主婦なども加わり、後に革新政党である日本社会党や日本共産党も支持に回り、運動は大きな広がりを見せた。
これが半世紀以上に渡る「三里塚闘争」の幕開けであった
新左翼の受け入れと過激化
抗議する地元農民に対し、空港公団(国)側が公権力を駆使した土地の強制収用を示唆したこと、また新左翼の活動が活発な時代だったこともあり、1967年に羽田闘争において機動隊と衝突した全学連の学生を見た反対派の指導者が新左翼の受け入れを表明。これに乗じた中核派や革労協、解放派をはじめとする過激派集団が成田入りし、代執行に際しては学生運動の衰退によって勢いをなくした学生たちが勢力挽回を目論み反対運動に参加して事実上の大暴動に発展した。
新左翼の介入によって勢いを得た反対派は無許可の大規模集会やデモを頻繁に開いて機動隊と衝突を繰り返し、測量に来た空港公団職員や労働者を竹槍で襲い負傷させるなど、行動を過激化させた。同時に土地移転に応じた者や、建設予定地の農家出身の警察官に嫌がらせを行うようにもなった。
しかし、新左翼の介入によって事態は完全に泥沼化し、長年に亘り流血を伴う凶悪な事件が発生するなど、現在に至る深い禍根を残すことになった。
第一次強制代執行
1971年2月22日に開始された第一次土地収用強制代執行において、暴徒と化した彼らは現地に於いて空港公団や全国から送り込まれた機動隊と衝突を繰り返した。農民は地下壕や団結砦に立て篭もり、過激派は火炎瓶や人糞を袋に詰めた「黄金爆弾」を投げつけるなど執拗に抵抗を行い、公団側は殆ど作業が出来ず早々に引き上げることとなった。
代執行闘争を一目見ようと押し寄せていた野次馬も反対派に乗じて投石を始めた。対する空港公団も反対派が体を縛り付けている木や鉄塔を反対派の農民ごとクレーンを使って倒すという容赦のない土地収用を強行した(一応受け止めるために網を張っていたが、あまり役には立たなかった)。公団の他にも、現地に派遣されたガードマンらが投石や奪った竹槍などで反対派を攻撃したり、闘争に参加していた農家の子供(少年行動隊)を警棒で乱打するなど、憎しみがぶつかり合った。このガードマンの多くは土地受け渡しに応じた地権者であり、反対派からは顔を合わせる度に罵声を浴びせられるなどの嫌がらせを受けていたが、反対派への攻撃を行ったのは東京などから派遣された者だった。
当時マスコミ世論は反対派側についており、テレビ局の車を使って機動隊を妨害した他、空港建設のために派遣された業者が投石用の石を提供したり、町の酒屋が火炎瓶に用いるための空き瓶を渡すなど、第三者の支援も空港建設の妨げになっていた。驚いた事に、空港公団の職員の中にも投石を行い逮捕された者がいた。
その一方で、警察は反対運動の経緯から農民の主張には理解を示していた。地元千葉県警のみならず警視庁など周辺地域から応援派遣された機動隊員も農民には同情的であり、逮捕された農民を起訴せず釈放するなど生活に配慮していたり、闘争前に機動隊員と反対派の農民がちょっとした雑談を交わすなど、僅かに交流もあったらしい。
同時期に、赤塚不二夫が現地に駆けつけ闘争に参加したり、翌年あさま山荘事件を起こす連合赤軍が山奥に設置した拠点(山岳ベース)に反対派が野菜を差し入れたりしていた。
しかし、運動の過激化は運動の勝利を齎すことはなかった。かねてより敵対していた新左翼の傘下に日本共産党は早々に決別、日本社会党も一部の運動は手助けしていたが、運動の過激化に反発し「過激派とは共闘しない」と宣言。国会に議席を持つ政党の支持を失った反対派は国会に自分たちの声を直接届ける能力を失い、内輪の論理や規律ばかりが優先され、手段が目的化していった。
新左翼の中でも革マル派は三里塚闘争に否定的であり、現地で素行不良を繰り返したため反対運動を追放された。その後は敵対セクトが多く参加していることもあり、度々嫌がらせを行うなど妨害をしていた。
政府は第二次強制代執行を9月16日に決定した。
第二次強制代執行と東峰十字路事件
1971年9月16日。ついに成田闘争初となる死者が出た。
第一次代執行に於いて反対派に加えて野次馬や支援に来た一般人まで作業を妨害したため、警備側は全国から機動隊を大幅動員し、代執行周辺地域に検問を三重に設置し、野次馬や現地入りした過激派集団を寄せ付けない計画を立てた。駒井野、木の根、天浪など反対派の立て籠もる代執行予定地に精鋭の警視庁機動隊と千葉県警機動隊を集中させ、その周辺は関東各県から応援派遣された正規の機動隊が、予定地から離れた地区は関東管区機動隊が担当することとなった。この管区機動隊の中には、代執行警備に際して臨時に編成された特別機動隊も含まれていた。
対する反対派・学生ゲリラは周辺地域に凶器を隠匿し、それを補給しながら各地の機動隊を襲撃し検問を強行突破して代執行予定地を目指す計画を立てた。農民は代執行予定地や周辺地域の模型を作ったり警察無線の盗聴を行なって機動隊の動向を察知するなど入念に打ち合わせを行った。しかし現地入りした過激派学生は、かつての大学闘争で敗れた恨みを代執行阻止闘争に便乗して機動隊に叩きつけることを目論んでいた。
9月16日早朝より代執行開始が宣言された。クレーン車を投石や火炎瓶で攻撃する反対派に機動隊が放水とガス銃で応戦し、双方は第一次の代執行以上に激しく衝突した。鉄塔や団結砦を警備車が取り囲み、放水に煙る中火炎瓶と催涙ガスが飛び交う光景は、まるで戦国時代を思わせる凄惨な有様であり、当時の映像を取り上げた海外メディアも、「戦国時代ではない」とナレーションを入れた。
現場最前線で戦争さながらの攻防が繰り広げられる中、開始直後から計画に沿って過激派学生と道案内役の若手農民(青年行動隊)から成るゲリラ部隊が外周警備を担当する機動隊を襲撃し始めた。
成田市各地で爆弾ゲリラや火炎瓶攻撃が展開する中、惨劇は起きた。
午前7時頃、駒井野の東に位置する東峰地区の交差点(東峰十字路)で危険物の捜索と検問に当たっていた関東管区機動隊神奈川部隊(特別機動隊「堀田大隊」)が不意を突かれ学生ゲリラに包囲された。正規の機動隊員ではなく一般の警察署員で構成された部隊は過激派の攻撃に対処しきれず、大隊長含む80人が重軽傷を負い部隊は潰走した。
周辺に分散していた各小隊のうち、十字路北側の捜索を行っていた一個小隊30人が本隊から孤立し、集中攻撃を受け殆ど全滅、逃げ遅れた小隊長以下3人の隊員が陰湿な暴行の末惨殺された。
詳細は東峰十字路事件を参照されたい。
機動隊員死亡のニュースは全国に速報で届けられ、海外にも発信された。
死者が出たことを受け代執行中止が進言されたが、警備本部はこれを拒否し、「殉職者のためにも代執行を完了させる」として作業を続行した。警官死亡の一報を受けた現場の機動隊員は激昂し、それぞれが担当する反対派の拠点に殺到した。一時は機動隊が劣勢になるも、仲間を殺された怒りに燃える隊員たちはガス弾や放水、煙幕を用いて反対派の抵抗を跳ね除けた。木の根では立てこもる農民が説得に応じて収容が完了し、残りの2拠点も機動隊の激しい攻撃によって次々制圧され、周辺各地に分散していた学生も検挙された。
駒井野では学生10人が籠城する鉄塔が強度不足によって倒れ、火炎瓶が爆発し学生が火達磨になったが、その場にいた機動隊員からは歓声が上がった。
19日、空港公団及び千葉県知事は機動隊員の疲れなどから20日に作業をしないと発表し、これを受けて支援学生は一時帰郷したが、その隙に機動隊と公団職員が現れ農民の老婆を引きずり出し、民家を撤去した。最初で最後となる民家の撤去を持って第二次代執行は終了した。
貧農の老婆の目の前で家を破壊する行為に反対派はますます憎悪を募らせたが、この「騙し討ち」を目の当たりにしてその容赦のなさに衝撃を受けたことと、一方多くの逮捕者を出したことで保釈金や裁判の費用の捻出などで出稼ぎに出る農家が続出し、物理的にも精神的にも運動から離れていく農家が出始める。
第二次代執行から一ヶ月後、東峰十字路事件に関与していたとされる青年行動隊の1人が「空港をこの地にもってきたものをにくむ」と遺書を残して自殺した。
泥沼化
東峰十字路事件をきっかけに、それまで反対派寄りだったマスコミが一斉に政府側に寝返った。反対派に同情していた警察も地元農民に敵意を剥き出しにし、警備の機動隊は反対派農民と顔を合わせると「人殺し!」と罵声を浴びせるようにり、学生に激しい暴行を加える「報復」が多発するなど事態はさらに泥沼化の一途を辿った。
1972年に発生したあさま山荘事件や山岳ベース事件などの大量虐殺事件の発覚によって全国的に新左翼・過激派への嫌悪が広がり、反対同盟も新左翼と同列に見做され、支持を失った。
世間から指弾を受けるようになった農民は土地の受け渡しに応じるなど反対運動から離れるようになったが、そうした農家は反対同盟から「脱落」の烙印を押され、畑を荒らされたり村八分同様の扱いを受けるなどした。農民が運動を離れると新左翼各派が運動を牛耳るようになった。
反対派の農民は、機動隊と学生の憎しみ合う姿に「我々が望んだ反対運動ではない」と嘆き、身を引こうと考える者もいたが東京などから(あくまで空港反対のために)女学生の活動家が嫁いできた農家などは、嫁に申し訳ないからと渋々運動を続ける羽目になった者も少なくない。
その新左翼も党派間での内ゲバが発生し、農民を自派に囲い込んで内部抗争を始めた。農民間でも新左翼との共闘に疑問の声まで始めたが、空港反対同盟を率いた戸村一作、北原鉱治の両名は思想が極左寄りになっていき、更に過激化した。そもそも極左過激派を受け入れたのは自分たちであるため、結局は縁を切れずに終わった。
1977年、再び警察・反対派の双方に死者が出た。
反対派が空港妨害のために建てた「岩山大鉄塔」を抜き打ち的に撤去した空港公団に対する無許可の抗議デモで反対派と機動隊が衝突する中、非戦闘員であることをアピールするために赤十字マークの入ったゼッケンをつけて闘争の最前線にいた青年が死亡した(東山事件)。反対派は既に1名の死者を出しているが、機動隊との衝突における死者は初であった。
反対派はこれを「機動隊が催涙ガス銃を水平撃ちしたことによる銃殺」と主張し、その翌日に中核派によって交番が襲われ機動隊員が負傷した他、警察官が殺害された(芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件)。
余談だが、赤十字マークの着用は日本赤十字社の許可を得なければ認められず、死亡した反対派の行為は立派な違法である。
また、宿場を燃やされた労働者が反対派の集落に放火するなど、相互間の憎悪は深まっていった。
管制塔襲撃事件、そして開港へ
複数の死者を出し、執拗な妨害を受けながらも成田空港は完成し、1978年3月30日が開港日に決定された。しかし、反対派がそれを黙って見ているわけがなかった。
1968年に機動隊が衝突した際に農民が密かに盗み出した空港の設計図を元に空港内部に通ずる下水道の存在を把握していた反対派は、拠点の一つである「横堀要塞」に籠城し、周辺各所でゲリラを展開して機動隊を引きつけることで空港の警備が手薄になった隙に排水溝から空港に突入し管制塔を襲撃する作戦を企てた。
第四インター主力の反対派は3月25日深夜から行動を開始し、 翌26日に反対派が横堀要塞撤去に出動した機動隊と衝突し、東峰十字路など周辺地域でトラックやタイヤに放火し警備部隊を撹乱させる中、第四インターらは下水道に加え、地上からも警備の機動隊を掻い潜りながら空港へ進撃を始めた。機動隊と反対派は各地で接触し、パトカーをトラックで追い立てるなど激しく衝突しながら、地下と地上の両方から成田空港へ突入した。反対派は機動隊を攻撃しつつ管制塔に侵入し、また建物をよじ登るなどして管制室を占拠した。職務中の管制官らは反対派と入れ違いに管制塔の屋上に避難したが、反対派は人質を取ることを禁じられていたためこれを逃した。反対派は管制用機器を破壊し、赤旗を垂らし、窓にセクト名やスローガンを落書きした。夕方、空港内で警官隊と衝突した反対派の部隊が撤収し、機動隊が管制塔に突入し残りのメンバーを逮捕した。この衝突で、第四インターの活動家が突入に用いられたトラックの荷台が炎上した際に前半に火傷を負って死亡したほか、事件の取り調べに精神的に追い詰められ、関与したメンバー1人が自殺した。
これによって開港が延期され、5月80日、反対派のデモや抗議集会が開かれる中ついに開港の日を迎えた。開港式では、当時の運輸大臣が「「難産の子は健やかに育つ」。この諺のごとく、本空港が健やかに成長していくことを念願する」との言葉を贈った。
開港後も空港へのアクセスを担う京成電鉄のスカイライナー放火事件が発生、他にも国鉄の航空燃料輸送列車が焼き討ちに遭うなど、関連施設や人物への妨害・襲撃事件が絶えなかった。千葉県警では常設の3個機動隊に加え、新たに「新東京国際空港警備隊(改称後は「成田国際空港警備隊)」」を新設した。
昭和60年、最後の武装闘争
1985年10月20日。空港の二期工事に反対する決起集会が成田市内の三里塚第一公園で開かれた。テロを警戒する警察によって所持品検査が行われ、危険物の持ち込みがないと判断されていたが、参加していた中核派を主力とする極左集団が参加者に公園内に隠匿していた火炎版や鉄パイプ、トラックで運び込んだ竹竿やゲバ棒など凶器を参加者に配り、武装させた。全学連委員長が演説を行い、空港突入を主張し集会の参加者は暴徒化した。決起集会からデモ行進に移った暴徒は、届出のコースを外れて空港第3ゲートへ続く道を空港へ向けて進撃し始めた。午後4時過ぎ、事態の急変を受けて三里塚交差点で阻止線を張っていた警視庁機動隊に、中核派は丸太を持って突っ込み双方は衝突した。同時刻、革労協が空港周辺の山林などに放火し飛行機のダイヤが乱れた他、偽造した身分証とタクシーで検問を通り抜け、自分たちの車両と別の車両の2台に発火装置を仕掛けて逃走した。装置が作動し車が炎上すると、偽装消防車で乗りつけた別働隊が空港に堂々と忍び込み、ホースに見せかけた散弾銃で管制塔に散弾を撃ち込んだ。この「偽消防車作戦」は数年前から計画されていたとされる。三里塚交差点の暴徒は警視庁機動隊によって排除され、中核派は241名の逮捕者を出して弱体化し、大規模な暴力闘争ができなくなった。
これを最後に成田闘争では死者、負傷者が出るほどの闘争は起きていない。が、空港公団関係者が中核派に襲われるなどの事件は平成初期まで続いた。
その影響は非常に大きく、空港内は事実上関係者と利用客以外の立ち入り制限は長く続き、検問所に於ける入場者の身分チェックは近年まで続けられた。
雪解け
90年代前後に入ると、国側もこれまでの対応のまずさを認識するようになり、また反対派側も冷戦の終結で世界観が代わり、世代交代が進むと一部穏健派の中で国との和解を探ろうとする動きが活発化した。穏健派は国側と円卓会議を取り持ち、国からの公式謝罪と今後は対話による土地の収用を目指すとした言質を勝ち取るなど成果を上げ、これを機に土地の収用に応じる農家が続出していった。
また、空港によって海外旅行が身近になったことや、家族親類が空港や関連企業に就職したことで反対運動から身を引く者も出始め、東峰十字路事件で殉職した警官の慰霊碑に元反対同盟員が献花するなど、僅かに雪解けも始まっている。この元反対同盟員の中には町長として強力に空港の発展に寄与する人物や、新左翼の構成員のほとんどが成田空港の近くに生活しないで反対派と苦楽を共にせず、自分達の思想のためだけに利用していると考え批判する人物が現れている。
三里塚芝山連合空港反対同盟は現存しなおも廃港を主張しているが、著しい高齢化と指導者の戸山、北原が相次いで死ぬなどメンバーの減少でかつての勢いは面影を無くし弱体化している。また、10.20闘争をきっかけに成田市が市内の公園で集会を開く事を禁じるなど、反対同盟(特に北原鉱治が率いる過激派)の活動が制限されてしまい、闘争全盛期こそ数百名の農民や学生が機動隊と小競り合いから乱闘に発展する程の集会を開いていたが、現在では右翼団体などが罵声を浴びせる中、空港警備隊に囲まれてデモ行進を行い、最後に弱々しくシュプレヒコールをあげるだけの見窄らしい集会を年に数回行うに留まっている。それでも沖縄の米軍基地反対運動など左派と親和性の高い社会問題を通して他の左派勢力との連携や組織のてこ入れと存続を測っているが、将来的な見通しは極めて不透明なままとなっている。
現在と影響
成田空港は開港から40年以上たった現在も未完成である。未収用農地を避けるように滑走路Bは短く作られ、横風滑走路も使用不能、深夜の利用も不可能になっている。
そうこうしているうちに大規模な拡張を前提として作られた韓国の仁川国際空港が「日本のハブ空港」と冗談交じりに言われるほどに発展し、これに対抗する形で羽田空港の国際化が進んだ。
成田空港も羽田の後を追う形で新滑走路とターミナルを建設したが、後手後手に回っている。おかげで「羽田を拡張すればよく成田は不要だったのでは?」と言われる始末だが、旅客はともかく貨物輸送は現在でも成田の独壇場であり、羽田だけでは首都圏の航空輸送需要は到底捌けるものではない。また羽田に関してはすぐ西側に「横田空域」と呼ばれる在日米軍の管制する広大なエリアがあり、民間航空が自由に使える環境ではないことに留意する必要がある。
成田空港以降、国側は「強引な建設は逆に長引き、暴力沙汰になりかねない」こと、民間人側も「新左翼の受け入れは事態を泥沼化させ、手段が目的化してしまう」ということを認識するようになり、双方ともに時間がかかっても話し合いによる解決を図るようになった。
新空港も多少コスト高でも土地問題が発生しにくい遠隔地や、海上に建設される傾向にある。
ドイツのミュンヘンでも、新空港建設の際当初行政が傲慢な態度をとっていたが、同時代に起こった三里塚闘争を見ると態度を改め三里塚闘争を徹底的に研究し分析、対話路線へと方針を転換した。
4年間で約260回のタウンミーティングを開催して反対派を説得し、説得に成功したのちも裁判などを経て敷地面積や夜間発着枠の制限などで歩み寄りを見せただけではなく、ターミナルビルのデザイン会議に住民代表を招くなどして官民合作の態をとることに努めた。
決定から完成までに25年以上の歳月がかかったが、ミュンヘン国際空港はそのスペックを持てあますことなく機能させてドイツ第2、欧州有数のハブ空港として運営され、その開港式も成田とは対照的に地元住民の祝福に包まれたものだった。