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醍醐輝弘の編集履歴

2019-05-29 15:35:38 バージョン

醍醐輝弘

だいごてるひろ

醍醐輝弘とは江戸時代後期の公卿

重要

父は醍醐輝久、母は蜂須賀重善の娘(蜂須賀幸子)、鷹司政通従兄弟および義兄、官位は従一位、内大臣


生誕

時代江戸時代中期
生誕寛政3年4月27日(1791年5月29日
死没安政6年9月9日(1859年10月4日
官位従一位、内大臣
主君光格天皇仁孝天皇孝明天皇
氏族醍醐家
父母父:醍醐輝久、母:蜂須賀幸子
兄弟輝弘隆生、信子
蜂須賀宗子、鷹司辰子
忠善忠順

経歴

形式上、本家である一条家の猶子となっていたが、寛政5年(1793年)に叙爵、実家の家督を相続する。以降父同様に清華家当主として速いスピードで昇進し、侍従左近衛権少将左近衛権中将を経て、寛政12年(1800年)に従三位に達して公卿に列する。その後、踏歌節会外弁・権中納言を経て、文化12年(1815年)に権大納言となる。


1819年、長男の忠善が生まれ家督も譲るが、翌年に死亡。再度当主となるが、1830年に次男の忠順が誕生し、翌年これに家督を譲った。


幼少の当主忠順を補佐する一方で、輝弘自身もその後長らく昇格しなかったが、天保11年(1840年)には踏歌節会内弁に就任し、弘化4年(1846年)に内大臣右近衛大将・右馬寮御監に任命された。嘉永元年(1848年)すべての官職を辞した。嘉永2年(1849年)に従一位を授与された。1859年に亡くなった。


家族

系図

輝弘は醍醐家を創始した醍醐冬基の子孫冬基の父は一条家を後継ぎした一条昭良で昭良は後陽成天皇の皇子で輝弘は後陽成天皇の男系子孫である。

後陽成天皇一条昭良醍醐冬基醍醐冬熙醍醐経胤醍醐輝久醍醐輝弘

系譜

父:醍醐輝久

母:蜂須賀幸子蜂須賀重喜の娘)

正室:蜂須賀宗子蜂須賀至央の養女)(実父は至央の甥、蜂須賀休光

男子:醍醐忠善

妻:鷹司辰子(准三宮鷹司政煕の娘)

男子:醍醐忠順


外部リンク

醍醐輝弘 - Wikipedia


関連項目

朝廷 公卿 醍醐家 一条家

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