祟りとは、心霊現象の一種である。
→もしかして、タタリ
概説
特に怒りや恨みなど、激しい負の情念を引き金に発生するとされる。
「呪い」にも似ているが、呪いは「発した側と呪われた側は一方通行である」、つまり逆恨みだろうと八つ当たりだろうと成立する。
一方「祟り」という言葉は、祟られる側にも一応の責任が存在する場合に用いられることが多い。
聖域を侵す、拝殿を損なう、供物を疎かにする、供物を盗む、その神や霊を侮ったり疑ったりする、新しい神や霊への信心を篤くして信仰を損なう――など。
兎角、信仰や慰霊の対象に対し、不敬を働いてしまったという認識があれば、その時点で祟りは成立するのである。
祟りは大きく分けて、神の不興を買って起こるものと、怨霊の憎悪が巻き起こすものに分けられる。
祟りが起きた場合は、速やかに「祭り」を開催して供物を捧げ、神や霊魂の怒りを鎮める必要がある。
こうした概念は、信仰や宗教を理由にしなければ説明のつかない現象に対する一種のこじつけであり、また人々の信心を理由に宿った罪悪感の表れともいえる。
同時に人間の本能に刻まれた「自然への畏敬」を起源と考えることも出来、人間が自然の恩恵を忘れて暴走することへの抑止力の側面もある。
御霊信仰は、人々を祟る存在の強力な霊威を鎮めつつ、その強大なパワーを味方に付けて守護者に擁立しようとする信仰でもある。
中には貧乏神や疫病神など、明らかに不易しかもたらさない「祟り神」などの神霊さえ祀ってしまうことで、その神が本来もたらす不易から守ってもらう信仰も存在する。
科学技術の発達した現代では、こうした信仰は単なる迷信として一方的に片づけられる。
しかし死者や神への慰撫の念を依拠として、それらを冒涜する行為を繰り返す人々に対する不快感として、「いっそ祟られてしまえ」と考える日本人は現代でも少なくない。
そこだけ祟りとは、日本人の精神に根付いた観念でもあるといえる。
創作作品における「祟り」
古代神話においては、神々の霊威を示す逸話として数多く語られる。
一方で英雄が古い神を淘汰する神話として、祟る神を英雄が討ち取って鎮める話も多い。これは新勢力がその土地にあった旧体制を制圧することの暗喩であったり、人が荒れ狂う自然に知恵で立ち向かい勝利したことを譬えたものであるものが多い。
近年ではミステリーなど推理小説のキーワードとして登場する機会がある。
有名なのは『金田一耕助』シリーズをはじめとした、過疎化した地方自治体を舞台にするもので、事件の原因を土着神や怨霊の祟りとして恐怖し、その恐怖を隠れ蓑に犯罪計画が進むパターンとなる。