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九千坊の編集履歴

2019-09-14 23:27:26 バージョン

九千坊

くせんぼうがっぱ

九州に棲むという西国の河童の親分。

概要

九州球磨川もしくは筑後川に棲んでいた、西国の9千匹の河童を治めていたという大親分で、中国黄河から一族を率いて仁徳天皇統治(3~4世紀)の時代に熊本県の八代に上陸して棲みついたものであると伝わる。

その勢いは衰えることを知らず、九州では多くの牛馬や人々が河童の害を受けた。


しかし安土桃山時代の末期、肥後熊本藩初代領主加藤清正統治の時代に、あろうことか清正が寵愛した小姓の尻子玉を抜いて殺してしまったことから、九千坊とその一族は清正の軍勢によって徹底的に殲滅されそうになる。

球磨川は高僧によって結界が張られて逃げ出せないようにされた上で毒や焼石を投げ込まれ、九州各地より集められた河童の天敵であるというをけしかけられた。


滅亡の危機に瀕した九千坊とその一族は、関雪和尚に仲介を頼んで命乞いをし福岡県の筑後川、田主丸馬場の蛇淵に逃れた。

この地を治めていた有馬公に悪さをしないことを条件に棲むことを許可されたことに温情を感じ、久留米の水天宮の眷属として暴れ川である筑後川の水難を抑えることに尽力した。


有馬家が文化年間に江戸の日本橋蛎殻町に水天宮を移すと、九千坊と一族もついてきて隅田川に棲むようになり、東国関八州の女親分である利根川に棲む禰々子河童と争ったが、力及ばずに敗れてしまったという。


一説によると九千坊とは中国大陸の政争から日本に逃れてきた技能者集団を含んだ一族、もしくは海賊であったという説もある。また久留米では沙悟浄の兄貴分であったという異説もある。

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